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July 23, 2005

『死神の精度』伊坂幸太郎
結城秀勇

[ book , book ]

death.jpg 『死神の精度』は、2003年の年末から今年の4月に渡る長いスパンで書かれた連作短編である。
「死神」を主人公として、本格推理風、やくざもの風、恋愛小説風、といった1話ごとに違ったジャンルの形式を利用した物語が展開される。ただ、ジャンルの形式を使って、といっても、形式化を押し進めてそれが破綻を来す地点まで行く、というような試みではもちろんない。「風」というのはあくまでプロットの段階でのことである。雪の中の密室ならば本格推理風、やくざが子分を助ければ任侠もの、といった具合に。ジャンルの徴となるはずのディテールは、半ば意図的に違うものに置き換えられ、半ば無意識に無視される。そんな構図は、凡庸きわまりない台詞が繰り返し反復されていくことで、ある瞬間突然強度を持つ、そんな伊坂の小説における台詞回しにも似ている。
 従って今回もやはり、様々な雰囲気を持った短編たちは、プロットによってある一点へと収束されていく。主人公が、「死神」という超越的な視点をもった登場人物であるという設定がすでにその伏線である。どの短編も「一週間」という猶予期間を描きながらも、ほとんどその長さ(短さ)を感じさせない。だが、最後の1話で一気に何十年という時間が経ったことを想像させる(その前の「旅路を死神」のラストでも、川の描写でほのめかされている)。小説内の言葉を用いれば、流れ去るだけの「時間」が「人生」になる瞬間だろう。
 しかし、それを確認する「死神」の超越的な視点が、実はそれほど超越的な視点ではないことこそ、重要なのではないかと思う。この小説で二度ほど登場する電話の話題。誰とも知らぬ輩から電話のかかってくる可能性があり、またその誰とも知らぬ輩の素性を調べる可能性の存在するネットワーク。「死神」である「千葉」の視点は、コールセンターのデータベースの前に座っている人間程の超越性しか、実は持っていない。情報を知るためには「死神」といえど、データベースを参照する必要がある。「「どうして情報が小出しなんだ」。私が積極的に質問しなければ、何も教えてくれない」。その足りない部分を、彼の考えが補足説明する。ある時点ともうひとつの時点を繋ぐのは、ひとつのパースペクティヴではなく、完全なデータベースを前にした男の推理にすぎない。そのふたつの時点は、過去と未来といった不等価な関係性を持つことはなくて、「深夜営業のCDショップ」がある世界から数十年の時が流れた世も、やっぱり似たような、ディテールを欠いた「ミュージック」に満ちた世界なのである。
「死神」の超越性によって、舞台となる場所も、時間も、各話ごとに異なる。それらが互いに驚くべき長さの距離を持っていたことに読者は最後気付くことになるのだが、だとしても、そのひとつひとつはあまりに似通っている。それは彼の小説にいつも登場する、「仙台」と呼ばれる空間に似ているのだ。別にどこの地方都市であったとしてもまったく何の問題もないような、小さく閉じた、だが互いにつながった、既視感に満ちた場所。
 ディテールを欠いた無時間的な一連の連作が、実はひとりの人間の一生分の長さを描く構成となっていたとしても、私たちはその人物の「人生」を生きることはない。だがこの『死神の精度』が、ほんの僅かに私たちのいる場所と繋がる可能性を持つとすれば、繰り返される60年代ゴダールの引用などによってではなく、「仙台」がいま私たちのいる場所の周りの至るところに存在する限りにおいてなのである。