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August 10, 2005

『ルート1/USA』ロバート・クレイマー
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

「語る」対象としての「死」とは決定的に「他者」のものでしかない。「自己における死」について、それはどのような場合においても語ることは不可能であるからだ。誰かにその「死」を見せるという「行為」においてそれは不可能であるとは言い切れないとしても、「語る」ことは絶対にできない。だから、語るものとしての「死」とは、すなわち「誰かの死」でしかない。「起こりうるかもしれぬ死」ではなく、「起こってしまったこととしての死」を、語ることとは「他者の死」について語るほかに方法がない。つまり、「事後としての死」とは「他者」そのものである。
 例えばその「事後としての死」という場所に「終わり」という言葉を強引に代入してみると、やはりその「終わり」とは「他者」によってしか語られることはないし、その「終わり」は決して「自己」における「終わり」ではないはずだ。そして、その「終わり」とは、やはり「他者」そのものを認める行為としてしか存在しないだろう。
 では、「誰か」が、ある「終わり」を宣言するという事態とはどういうことなのか。それはつまり「起こりうるかもしれぬ終わり」を口にするだけにすぎないのであって、「起こってしまったこととしての終わり」が呟かれたのではない。だから「誰か」が不意に口にする「終わり」の宣言とは、それが絶対に「終わっていない」ことを、「他者」が受け入れることでしかない。つまり「終わり」とは「主体」の問題ではほとんどありえないということだ。
『ルート1』の終盤、既定されたはずの目的地を目前にして、カメラの被写体であり続けたドクという名の職業俳優は「私の旅は終わった」と口にするも、彼がフィルムの中で「終わり」を迎えたはずもないことは誰の目にも明らかだろう。彼の旅は終わらない。ひとりの女と共にこの地に留まり、医者としての働き口を探し、古びた住居に生きようとする彼の姿には、「終わり」の痕跡など存在しない。
 だが、このフィルムには明確な「終わり」の徴がひとつだけある。それはこのフィルムの冒頭、ドクが船の上から港に降り立つショットのことだ。彼が港に降り立ち静かに歩き始める時、クレーマーが撮影するカメラは船の上に留まり、港を歩くドクの姿を、港から離れていく運動の最中に捉え続ける。船はこのフィルムの舞台であるはずの地から、少しづつ後退し、「パリのアメリカ人」であるクレイマーと、その分身として用意されたに違いない職業俳優が演じる「10年振りに帰国する医師・ドク」を決定的に乖離させてしまう。その時、ここで「他者」は「終わって」いる。正確に言えば「ドク」という男が生きようとした「クレーマー」という「他者」は、あるいはその逆はすでに「終わって」いるのだ。その「他者」の「終わり」をいきなり受け入れることで、『ルート1』というフィルムは、不可能であるはずの「自己」の「終わり」を、ドク、そしてクレーマーというふたつの「主体」に生きさせようとしている。そして、もちろんその意味で『ルート1』は現在も「終わり」を迎えてはいない。

 このフィルムとは実際にはまったく関係がないはずの1本のフィルムのことを最後に。ウディ・アレンの『さよなら、さよならハリウッド』のことだ。ウディ・アレンは売れない映画監督という「自己」の分身でありながらも、盲目であるという絶対的な「他者」を演じ、このクレーマーとまったく正反対に「パリのアメリカ人」となることを選ぶことで「Hollywood Ending(ハリウッドの終わり)」を生きる物語を語った。現在において「ジャンル映画をスタジオの中でリメイクする」という物語を語ること、それは「終わり」を迎えてもなおその場所で生きようとするという意志そのものではないのか。「Ending」という語が示すように、今我々が直面している「終わり」とは絶対に〈終わらない/終われない〉ものとしての、継続としての地平にある「終わり」であるのだ。その主語に置かれているはずのものが何か、それについては語るまでもないだろう。