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August 11, 2005

『世界』ジャ・ジャンクー
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 北京郊外の世界公園。いながらにして世界のモニュメントを体験できる場。エッフェル塔やビッグ・ベンなどが、縮尺した模型で建ち並んでいる。いながらにして世界を体験できる、という表現は単に矛盾である。「世界」とは徹底して外部にあるものであるがゆえに、その一部──そう、私たちは常にその一部しか体験できない──を体験するためには、必ず外部への踏み出し、つまり旅行が必要になる。つまり「いながらにして世界を体験する」ことは不可能だ。そして、仮構された「世界」がそれぞれの都市のモニュメントの模型の群であるというのも、単に矛盾している。コンテクストが存在しないからだ。それぞれのモニュメントは、それぞれの都市のコンテクストを欠いて存在することはできない。こんなものは「世界」でも何でもなく、単に「世界公園」と名付けられた「公園」なのだ。そして、その「公園」というモニュメントは、現代の中国と北京という都市を背景に持っている。
 映画的に思考すれば、こうした模型、あるいはシミュラークルと呼んでいいかもしれない何かを現実の世界と交換するフィルムを私たちはかつて見たことがある。ゴダールの『カラビニエ』だ。戦争に総動員された若いふたりの兵士は、戦利品として多くのモニュメントや産業製品を持ち帰るのだが、それがすべて絵葉書なのだった。「世界」を手に入れることと絵葉書の収集とが混同され、「世界」のシミュラークルとして絵葉書の写真を手に入れる。「世界公園」の模造品のモニュメントと同じ発想だろう。
 ゴダールが、ある種の寓話として、ブレヒト的な異化効果と教育劇として提出した『カラビニエ』が極めて知的な作品だとしたら、ジャ・ジャンクーの『世界』は、寓話さえ語ることのできない登場人物たちが切羽詰まった表情でシミュラークルはシミュラークルでしかないことを悟る作品である。「世界公園」には、なにしろ中国と北京の現在のコンテクストが詰まった場所なのであり、これはセットではなく、ロケなのだから。実際の兵士は絵葉書を戦利品とはしないだろうが、北京を訪れた観光客には「世界公園」を「世界」と混同する人がいるかもしれない。ジャ・ジャンクーは彼の両親もそのひとりだとインタヴューで語っている。
『プラットフォーム』では、トランジスタラジオからかすかに聞こえてくるテレサ・テンの唄が「外部」(つまり「世界」)だったが、このフィルムで、登場人物たちは、「世界」(=世界公園)にあって、彼らがいる場所は、単に「内部」でしかないことを十二分に知っている。そして、彼らは、その内部から外部を希求してみるのだが、少しも外部など見えてはこない。外部を希求すればするほど、彼らは内部に幽閉されて、そこから一歩も出ることができないことを知るだけだ。89年のベルリンの壁の崩壊、天安門事件、中国の開放政策……。解放すればするほど、彼らは内部に押しとどめられることを知るフィルム。それが『世界』だ。外部へと旅立つためには、この世からあの世へと移行しなければならず、事実、このフィルムのラスト近くで主人公のカップルは一酸化中毒で命を落としかけるが、何とか一命を取り留めたように見える。彼らが外部を垣間見る時代は来るのだろうか。

秋、銀座テアトルシネマにてロードショー