「ブラッサイ——ポンピドゥーセンター・コレクション展」梅本洋一
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ブラッサイの全貌を見せる展覧会ではない。ポンピドゥーセンターに収蔵されている『夜のパリ』と彼の彫刻、そして落書きを集めたもの。巡回展につきものの物足りなさが残る。もっと見たい。彼の全貌を見たい。「ハーパーズ」のファッション写真まで含めて彼の写真を見たい。
だが、だからといって、ここに展示されている『夜のパリ』がダメだと言っているのではない。よくシュールレアリスムとの関係が語られ、事実、「ミノトール」に多くの作品を発表したブラッサイだが、これらはシュールレアリスム的な写真であっても、決してシュールレアリスムの精神を体現したものではない。オトマティスムからも幻想かも遠い。単にそこにあるものが、もっともそこにあるものとして示されているだけだ。だが『夜のパリ』に集うモデルや街角にはパリの記号はいっさい見えない。モニュメントは写り込んでいないし、1930年代という時代の記号もまた衣服など風俗の一部を除いて見えはしない。一見、単純なスナップにも見えながら、そこには長い時間をかけたモデルとの関係構築と構図の実現があったことはよく知られている。誰も、彼女の(彼の)「こんな」写真は撮れない。できるのはブラッサイだけだ。美しさからは遠い。けれども実に親密で、同時に、他者には近づきがたいような距離──それが『夜のパリ』を支配している。だから、それらが親密であるがゆえに、これらの作品はまさしくブラッサイという「芸術家」の記号が染みついてついており、冷徹な距離ゆえに、両大戦間のパリという時代と空間をモニュメントなしに伝えている。
だからもっと見たいのだ。東京都写真美術館に来るたびに感じるこの物足りなさは何だろう。ポンピドゥーセンターを訪れた後の満腹感とは正反対だ。ギャラリーと美術館のちょうど中間くらいの大きさはとても使いにくいのかもしれない。でも展示の仕方(ぶっきらぼうに作品が並んでいるだけ)とキューレーションのあり方(たとえばブラッサイについての連続講演会やワークショップなど)を少し改善すれば、この「箱」も十分使い道があるのではないか。
もっともこのことは恵比寿ガーデンプレース全体にも言えることだ。デパート、映画館(恵比寿ガーデンシネマと写真美術館の上映ホール)、写真美術館、レストランやビアホール。かずかずの施設に統一的なコンセプトを与え、全体的な運動体としていくことだって可能だろう。六本木ヒルズの賑わい(何度も書くとおり、ぼくは六本木ヒルズが嫌いだが)と恵比寿ガーデンプレースの閑散とした風景(中央の広場では、地元の子供たちが遊んでいる)とは対照的だ。もう少し総合的なプロデュースができないだろうか。