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January 27, 2006

《再録》here & somewhere
黒岩幹子

[ cinema ]

(2006年1月27日発行「nobody issue21」所収、p.28-31)

nobody21_表1.jpg 4年ほど前、ペドロ・コスタ監督の『ヴァンダの部屋』(00)を初めて見たとき、私はふとヤニス・クセナキスの『ペルセポリス』という音楽を思い浮かべた。
『ペルセポリス』は1971年に8チャンネル・テープで録音されたいわゆる電子音楽。詳しくは、「複数のアコースティック楽器による演奏と、集音マイクで拾集された様々な自然音や具体音が、ほとんど分け難いまでに渾然一体としたまま、大胆極まる電子的変調を加えられ、極度の緊張感を学んだ、異様な音塊と化してしまっている」(佐々木敦)音楽。その初演は日没後のイラン・シーラーズ高原で、レーザー光線や遠くに見える山にカガリ火をともすなどの演出を加えて行われたのだという。
 その『ペルセポリス』が『ヴァンダの部屋』とどう関係するのか。たぶん、特に関係はないのだと思う。いや、たとえば「音楽は、その定義からモンタージュの芸術、くみあわせ、音程論(ハルモニア)である」といったクセナキスの言葉や、確率論を持ち込んだ手法、その音を指して言われる「星雲」という単語などを持ち出して、あれこれ理屈をこねることは可能なのかもしれない。が、私はそのとき、そういった具体的な理論や言葉から「ペルセポリス」を思い浮かべたのではない。ふと思い浮かべただけなのだ。それは大雑把に言ってしまえば、感覚的なものでしかないのかもしれないし、それを否定もしない。それでも「ヴァンダの部屋」という映画を見たときになぜその音楽を思い浮かべたのか、という問いそれ自体は、今さらながらでも少しは整理しておいたほうがいい気がする。
 仮に私が『ペルセポリス』を聴いたことがなかったとしよう。だったら、『ヴァンダの部屋』という映画に遭遇したときのことをどう言い表すだろうか。きっと馬鹿みたいにこう繰り返すだろう、気がついたら私もヴァンダの部屋にいたのだ、と。もちろん私がいたのは東京は赤坂の国際交流基金フォーラムという場所だ。映画館ですらなく、折り畳み椅子に乗った尻も痛かった。しかし、ふとした瞬間から、私は廃墟が解体される音のなかにいた、ヴァンダの咳を耳元に感じた、あの部屋をべったりと覆う暗闇のなかにいた。簡潔に言ってしまえば、それは『ヴァンダの部屋』という映画には「フレーム外」があるということなのだろう。フィックスされたキャメラ。それが置かれた位置。あるいはどこで鳴っているのかはわからないが、否応なくその部屋(ショット)に侵入してくるノイズ。
 一方で(だからこそ?)、そこに映る廃墟や路地、そこにじっとしているヴァンダたちは、外部から切り離されている。その場所こそが彼女たちにとって唯一の世界だ。キャメラが遠景を捉えることはなく、人もキャメラもほとんど移動しようとしない。そして、スクリーンこそがただひとつの窓であり、ゆえに、それを見る私たちがじっと座り、もぞもぞと尻を動かしている場所と、その暗闇とその闇を横切る光によって繋がっているような錯覚を起こさせる。
 おそらく単に私は『ペルセポリス」をそのように聴いているというだけのことだろう。さまざまな、しかし「分け難いまでに渾然一体となった」それらの音は、否応なく私の耳をこじあけ侵入してくる。そのあらゆる音はそこにはない音をも浮かび上がらせ、しかしそれらの音はただひとつの空間をつくっている。

 ところで、当然のことながら私は「ペルセポリス」の初演に立ち会ってもおらず、8チャンネルから2チャンネルにトラック・ダウンされたCDで聴いているだけなので、特定の視覚情報を得た上でそれを聴くときに何らかの違いが生じるかどうかもわからない。さらには、大抵の場合、私はそれをヘッドホンをつけ目を瞑って聴いていた。
 だから、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』という映画を見る前に、そのなかに草原での演奏シーンがあると聞いたとき、私が自分の頭の中で安易に思い浮かべてしまったのが、『ペルセポリス』であり、その初演の空間について書かれたいくつかの文章から推し量っていたイメージだった。だだっ広い草原。四方に据えられたスピーカー。その中央に立つ目隠しをした少女......。もちろん、まだ見ていない映画を、これまた実際に見たことのないイメージと重ね合わせたところで何の意味もない。そればかりか、実際に映画を見たところ「ペルセポリス』を思い浮かべることもなかったのだから、なお始末が悪い。
 なぜ思い浮かべなかったのか。それはすごく単純なことだが、『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』の草原にはエレキギターを演奏する人がいる。同時にそこでは演奏しない人が作った音がある。さらには人がスイッチを入れることで音を出す機械がある。その3つが鳴らす音は同時にスピーカーから出ているが、そこで初めて共鳴する。そしてまたばらばらに音を出すのを止めていく。それらの音は確かに、いわゆるノイズ・ミュージックであるが、渾然一体となっているわけではない。ギターはギターとして、バックトラックはバックトラックとして、機械は機械としてそれぞれの音を響かせる。
 もうひとつ。それらの音はその草原でのみ響いているのではない。厳密に言えば、それはその場所で演奏されているのだが、もうひとつ別の場所が見える。その音を聴いているのは黒い服を纏った少女であるのだが、もうひとり白い服を纏った少女が見える。彼女たちは目隠しをしているので、その場所が眼には見えていない。もし私たちも目隠しをしていればそこはひとつの場所になる。しかし私たちの眼にスクリーンが映る限り、そこにはふたつの場所がある。そのふたつの場所は私たちが耳にする音を介して初めてつながる。

 始めはひとつの場所があった。ふたりのミュージシャン、ミズイとアスハラが毎日音を録り、音を作り出し、様々な時刻を指す時計がかかった店で飯を食う。その場所にひとりの老人と、その孫娘、探偵を乗せた救急車が入り込んでくる。ふたりのミュージシャンにとって、彼らの訪問は、レミング病という病をラジオの向こう側、その場所の外側から持ち込んだ、というよりも、過去という時間=もうひとつの空間が否応なく侵入させるものとしてあっただろう。しかし、その少女たちを招き寄せてしまったのは、他でもない彼ら(が作り出す音楽)なのだ。
 ここで私が思い出すのは、この映画の監督がかつて書いたある文章だ。
「彼らは「語るべき〈物語〉」など想定しないし、それが無いなどという泣き言を言った試しもない。何故なら彼らにとって〈物語〉とは否応なく目前に巻き起こるものだからである。彼らの行動がそれを招き寄せているのであり、だから彼らはその〈支配〉に苛立ち、〈物語〉と格闘する。だが逆に、と同時にそれは、あくまで事後的にしか言えないことだが、彼らにしか語り得ない固有の〈物語〉となる」(「大きな男の浚巡 ヴェンダースと中上健次」)
 この「彼ら」というのは、ヴィム・ヴェンダースと中上健次のことである。しかし、かなり乱暴にではあるが、「彼ら」をこの映画のミズイとアスハラに置き換えることはできないだろうか。そして〈物語〉とは「過去」に、「音」に、もしかして「病」にすら変換することができてしまうのではないか。それは明らかな矛盾である。しかし、アスハラが言い放つ「音が病気を殺すんじゃない、音が病気の餌なんだ」という言葉がより深い意味を帯びてくるようにも思える。「音」と「病」は決して同義ではない。しかし、「音」があるから「病」が存在し、「病」があるから「音」が必要となる。
 そう考えると、冒頭のレミング病とも過去の記憶とも無縁であるかのような、ミズイとアスハラの穏やかな佇まいが、決して諦念や達観によってもたらされているものではないように見えてくる。確かにその牧歌的な世界は救急車の登場によって終わりを迎える。だが、それまでも彼らは「音」をつくり、録音し続けていた。もしかして彼らは「音」と格闘することで、「病」や「過去」に抵抗し、同時に「音」を受け入れることで、「病」や「過去」も受け入れようと努めていたのではないか。つまり、過去の記憶やレミング病は、少女や探偵たちによって突如もたらされたのではなく、あの世界の背後にすでにあったのだと言えるだろう。
 だからこそ、あの草原でミズイがギターを弾くとき、その傍らにアスハラがいる。そこに立つ少女に、かつてその音を聴いた別の少女の姿が重なる。彼らは別の場所にいるが、同時にこの場所にいる。彼らこそがふたつの空間を繋げている。

『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』が孕むそういったある種の媒介性は、それとは一見まったく異なる物語のようであり、小説という形で発表された『死の谷'95』にもどこか通じるところがあるように思える。
 次郎、そして一郎。夏目漱石の『行人』の兄弟と同じ名前を「仮に」与えられた兄弟。次郎はここにいないはずの一郎の妻が、別の人の妻となって姿を表すことで初めて一郎と関係を結ぶことができる。あるいは、ひとりの女性を愛したふたりの男はその女性ではなく、その死の真相を探る次郎を通じて初めてつながり、次郎もまた死んでしまった女性の姿を通してふたりの男と接する。あるいはそのふたりの男のひとりが次郎と一郎の妻を巡り合わせる。それはまるで「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」において音響が果たした役割をそれぞれの人物が果たしているかのようだ。
「そこまで考えた次郎に、いま、はっきりと見えるものがあった。とにかく耳を澄まして目の前にいる相手の存在を正確に聴き、ともに語らねばならない。でなければ魔力は消える。秘密も消える。あとに齟齬と軋礫が、無為の死が、手ぐすねを引いている。〈丘のむこうに〉のエンディングには、イントロのギターフレーズが繰り返される。ただし、とても小さな音で」(「死の谷'95」)
 ミズイはハナが気を失って倒れてしまってもギターを弾き続ける。それはただ彼女が倒れるのを見ていなかったからではないだろう。その音を聴いている人が他にもあるからだろう。そしてそれは「ここ」にいる私だけではない。「ここ」にも画面上にもない何かだ。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』という映画はただ「ここ」にあるのではなく、「ここ」とどことも知れぬ場所の間にある。