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February 21, 2006

『ミュンヘン』スティーヴン・スピルバーグ
月永理絵

[ cinema , cinema ]

 1972年、ミュンヘンオリンピックに起こったテロ事件と、それによって引き起こされた暗殺事件がこの映画の題材となっている。ミュンヘン事件とは、オリンピックに出場していたイスラエル人選手たちが、パレスチナ過激グループ「黒い九月」のメンバーによって監禁され、11人全員が殺害された事件である。その後、イスラエル機密情報機関「モサド」は、暗殺チームを編成し、この事件の犯人であるパレスチナ人11名の暗殺を企てる。その暗殺チームのリーダーとなる男を、エリック・バナが演じている。
 この映画の中で、ミュンヘン事件の様子は2種類の映像によって伝えられる。ひとつは、テレビの報道番組が映す実際の(と仮定された)映像。もうひとつは、物語の一部として事件当時のテロ集団とイスラエル人たちの姿を最後の瞬間まで追った映像。このふたつの映像が物語の合間に映し込まれている。映画のラスト近く、任務を終えアメリカに暮らし始めたエリック・バナが妻とセックスに及ぶシーンがある。彼は自分の任務を通してノイローゼ気味となっていて、そんな彼を慰めるかのように始まったセックスの最中も、自分の体の下から見つめる妻の顔をまったく見ようとはしない。正面を向き、どこか彼方を見つめたままだ。その視線の先を追うかのように、イスラエル人たちが殺されていく最後の映像が映し込まれる。これではまるで、彼らの最後の場面が映写されるのを、エリック・バナがベッドの上から見つめているようだ。そして、彼らが殺されると同時に、彼もまたベッドの上で倒れこむ。こうして2種類の発射が重ね合わされる。彼こそが事件の一部始終を見聞きし、殺された同士たちの悲鳴を一身に引き受けているかのように。精液のように白く濁った汗が彼の体から飛び散るのと同時に、もうひとつの場所では、何十発もの銃弾がイスラエル人たちの体に打ち込まれるのだ。
 この映画では、「和解」とはどのようにして訪れるのかということだけが延々と描かれている。ひとつの場所に複数の思想を持った人間が共生できるのかという問題は、驚くことに、ひと組の夫婦の「和解」によっていとも簡単に解決される。2時間半もの時間をかけて描かれた彼らの戦いは、アメリカのひとつの「家庭」の中で、そしてたったひとりの女の手によってすべて許されてしまう。もちろんそれは何の解決にもならないのは明らかだが、彼女が自分の上に倒れこむ夫にそっと手を差し伸べるシーンは、それまでのどんな映像や言葉よりも強い説得力を持っていた。そしてラストシーンでのエリック・バナの顔には、それまで見られなかった力強い表情が浮かんでいた。
『マイノリティ・リポート』から『ターミナル』、『宇宙戦争』と共通して私が感じていた違和感は、一定に保たれていた映画のスピードが、ある瞬間を境に突如失速し、驚くほどあっさりと物語の結末を迎えている点だった。ラストシーンで見せる人々の幸福感が、それまでの物語とぷっつりと断絶しているように思えたからだ。『ミュンヘン』でもまたこうした断絶はあるのだが、スピルバーグが初めて描いたこの官能的な女性=母親の姿によって、ラストシーンに対する不信感はどこかに行ってしまった。だからと言って、この映画自体が信じられるわけではないのだけれど、スピルバーグの映画を見ていて初めて、本当に信じられる物語を発見したような気がした。

丸の内プラゼールほか全国松竹・東急系にて公開中