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March 1, 2006

『歌へ今宵を』カルミネ・ガッローネ
須藤健太郎

[ cinema ]

 幸福な空間とはおそらくこういうことを言うのであろう。上映後には拍手が起こり、あちこちからヨカッタヨカッタという声が聞こえる。まるでこの映画のラストで幸福感に満たされた誰もが突如として踊り出してしまうように、軽い足取りで、幸せな気持ちになって、みなが会場を後にしているように見えた。映画を見ることの楽しさとは、そう、このような幸福な体験を繰り返すことなのかもしれない。そんなことを思った。
 主演のヤン・キープラについても、監督のカルミネ・ガッローネについても何も知らない。ヒロインであるマルタ・エッゲルト(めちゃめちゃかわいい)についても同様に。しかし、見に行ってよかったと心から思えるほどに面白かったのだ。
 本作は、ポーランド出身のテノール歌手ヤン・キープラが自身の歌声を披露する音楽映画であり、また彼が客船の中で出会うマルタ・エッゲルトと彼のふたりのラヴストーリーでもある。キープラが所属する劇団がオペラを上演する劇場を探し、劇場との契約がとれないので、その劇場の前で野外公演をしてしまう、というのが大まかなストーリーと言えるであろう。1934年製作。
 しかし、何がそんなに面白かったのかを説明するのはやはり難しいことだ。本作でキープラの演じる歌手は、舞台上でなくとも、船上でも室内でもカジノでも、どこでも歌い出すのだが、その歌はたちまち周囲の注目を集め、みなを虜にしてしまう。まずは彼を率いる一座のディレクターが彼の歌声にとことん惚れ込んでおり、マルタ・エッゲルトもまた彼が歌に託して語る愛の言葉にすっかり心を奪われてしまうのだ。そして、対立しているはずの劇場の支配人やその秘書もまたその歌声を聞いているうちにそれに魅了されてしまう。この映画を見ている観客も、それと同じように、理屈を越えて画面に見入り、耳を澄まし、気付けばこの映画に魅了され、心奪われてしまうのかもしれない。
 野外では、劇場での演目と同じ『トスカ』が上演され、まったく同じペースでふたつのオペラは進行していく。野外公演に次第に注目が集まり、人が集まりだすと、劇場内で鑑賞している観客たちも次第に退場していき、最終的には劇場には眠りこける老人以外観客は残らず外へとなだれ込んでいる。かくして大成功を収めたキープラたちは、大勢の観客たちの感動の拍手に包まれるのだ。マルタ・エッゲルトとの間のすれ違いや勘違いもいつしか解消され、ふたりはその成功の興奮のまま踊り出し、それが周りに波及し、大勢の観客たち全員が軽いステップを踏み、喜びを分かち合う。これがこの映画のラストシーンである。

日本におけるドイツ 2005/2006
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