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July 21, 2006

『こおろぎ』青山真治
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 映画について考えられるいくつかの言辞。たとえば音声と映像でつくられている映画は、嗅覚と触覚を直接示すことはできない。映画から匂いも香りも生まれない。映画で人と人の接触を見せることはできるが、その感覚を共有するためには想像力が必要だ。たとえば極めて具体的に事物を映し出す映画が、抽象性に向かおうとするとき、そこからは人名、地名などの固有名が脱落し、人は、「男」だったり、「女」だったり、「若い人」とか「老人」としてしか表象されないが、同時に、映画から固有名が消え始めるとき、映画は別の即物性を濃厚に獲得していくことになる。何かを食べるとき、「何か」が強調されるとき、映画は具体性を留めるが、「食べる」という動作が強調されるとき、映画は、極めて抽象性の高いものに変貌する。いずれにせよ、ここでストローブ=ユイレという固有名を提出してみれば、いっそう明瞭になるだろうが、映画において抽象性と即物性とは背反するものではない。
 青山真治の新作『こおろぎ』は、その徹底した抽象性への指向と、撮影に選ばれた場所に濃厚に貼り付いた具体性の中で揺れ動いている。西伊豆の松崎に近い、安良里の黄金崎という固有名が示す具体性。だが、そこに住む若い漁師の「太一」ではなく、言葉と視覚を失った老人と、家族という市民社会を構成する最小単位から逃れて、老人と暮らしている30代の女性という抽象性。ふたりの間でもっぱら語りかけるのは、当然のことながら、女性であり、老人は、視覚と言葉を欠いているがゆえに、まるで彼が歩行するとき舗道の幅を確認するために常に手にしている杖をなくしたときのように、周囲の人やものと自らの間にある距離を黙視することができない。だから映画に見えるのは、老人が女性の存在を確認し女性の行程を確認するために行使する「匂いをかぐ」という行為であり、老人が食欲を満たすときに行使する「食べ物に触れる」という行為である。匂いによって老人は、女性が漁港の共済組合が開く奇妙なバーで青年に惹かれたことを触知し、皿の上にある目玉焼きに直接口をもっていくことで、その食べ物を触知することになる。女性への欲望、食欲を表象するとき、このフィルムは、強烈な即物性を帯び始める。否、視覚も言葉も欠いた存在は、映画というメディアにおいて、存在を許されるのだろうか。つまり、この老人は、その強烈な行動によって「存在する」と同時にその行動の根拠──視覚と言葉の不在──によって映画の中では徹底して「非在」なのである。
 彼の小説が言葉という抽象によって具体性を獲得しようとする勇気ある闘いの記録であるのと同様に、あるいは、その方向性はまるで逆だが、彼の映画は、映像と音声という具体性によって、底知れぬ抽象性を獲得することを目指している。ここにいる男と女は、言葉を欠き、視覚を欠いたままでも、互いを確認し合う術を持つことで、このフィルムは幕を下ろす。