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August 3, 2006

『ゆれる』西川美和
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 多くの観客を集めている、この兄弟の愛憎劇をようやく見た。水曜日ということもあってか、映画館は1時間前に満員札止め。観客のほとんどは20代から40代の女性だった。
 残念ながら処女作の『蛇イチゴ』は未見だが、西川美和に才能が備わっていることは事実だ。
 写真家として仕事をする弟が母の死をきっかけに久しぶりに山梨の実家に帰り、そこで実家のガソリンスタンドを経営する兄と会う。ガソリンスタンドではかつて好きだった女性が働いている。3人は葬儀の翌日にかつて行った川に出かけ、そこに架かる釣り橋から女性が落下する。一緒に居た兄が女性を突き落としたのか、あるいは事故だったのか? 物語は、その謎を中心に展開していく。結局、兄は殺人罪で逮捕され、裁判が始まる。フィルムの多くは裁判シーン──つまりこのフィルムはコートプレイである。弁護士には兄弟の父の弟があたり、兄弟のテーマはひとつ上の世代にも反映している。シナリオは極めて精緻に書き込まれている。
 弟を演じるオダギリジョーと兄を演じる香川照之は好演だ。そして蟹江敬三扮する弁護士事務所の窓からは京浜急行が行き交い、実に映画的なシーンも多い。
 俳優たちの演技にばらつきはあるが、見ていて破綻をきたすほどではない。確かに西川美和には才能がある。だが──ここから先を書くことは微妙なのだが──、ぼくはこの新たな才能の発見を手放しで絶賛することができない。なぜか? まず彼女の才能は破綻のないシナリオの構成によっているからである。物語を言葉で見事に語ること。それも過不足なく。フレーム内に見事に収まった物語。普通なら誉め言葉になるはずのシナリオの構成力が、世界をあまりに小さくしているように感じられる。フレームの外側に流れている(はずの)訳の分からない「世界」がここにはいっさい存在しない。いくつかの舞台設定は十分に描写されているのだが、映画の時間が流れていくのがさっぱり感じられない。そう書けば分かってもらえるだろうか。映画はフレーム内に収まった空間と時間を描写すればよいだけではない。無限に広がる時間と空間の中から、フレームが何を切り取り、そして、フィルムを見聞きするばくらには、フレームの外側の時空さえ想像できる広さが必要なのではないか。物語とではなく、同時代の時間と空間と格闘することが映画には求められているのではないか。西川美和の語る物語は、フレームの中にあまりに見事に収まっているのではないか。世界の荒々しさが映画のフレームの内部にまで浸透してほしいと思うのは要求があまりに高いということだろうか?

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