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August 30, 2006

『ブラック・ダリア』ブライアン・デ・パルマ
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 ジェイムズ・エルロイの傑作ノワールをデ・パルマが映画化。それだけでワクワクするのはぼくだけではないだろう。多くの人物に等価に光を当てて、複雑な物語を語るエルロイとバロック的映像を多用するデ・パルマの齟齬を不安視する向きもあるだろう。いったい今のハリウッドに『ブラック・ダリア』に出演することのできる俳優たちはいるのだろうかという危惧もある。でも、そんないっさいの不安や危惧よりも、デ・パルマとエルロイの遭遇、デ・パルマがどんな映像でエルロイ的な世界を造形するのかという期待の方が大きい。
 実際に見てみると不安は解消され、デパルマの力量の大きさが改めて分かった。まるで盛時のハリウッド映画のような色彩(夜のシーンの黄色と赤)と小道具(50年代の黒塗りのクルマと家具)──現代にフィルムノワールを出現させるためにはこれだけは絶対必要だ──の中に、まるで双子のような刑事──ミスター・アイスとミスター・ファイア、双子のようなファム・ファタル──ケイ・レイクとマデリン・リンコスットがいる。ふたりの刑事の出自はともにボクサー。そしてふたりのファム・ファタルは、ひとりが白を纏い、他のひとりが黒を纏う。俺はあいつの鏡であり、あの女はまるでわたしを裏返しにしたようだ。久しぶりにデパルマと組んだヴィルモス・ジグモントのぬめるようなカメラワークが冴え渡る。極めて理知的な画面構成力が、人間関係を整理して可視化してくれる。
 もちろん原作にあるのだろうが、ヒラリー・スワンクが演じるマデリンという役名は、ヒッチコックの『めまい』を思わせ、かつて『愛のメモリー』を撮ったデ・パルマにとって、この役名と双子の主題系は、このフィルムに向かう極めて重要なモティヴェーションになっているだろう。
 ブラック・ダリア殺人事件をめぐって、捜査は堂々巡りし、行き着く先々には見えない壁と倒錯的な影のような殺人者の存在が感じられる。見えない壁の向こう側には権力と金銭が蠢き、殺人者の倒錯は、胴体を真っ二つにされたブラック・ダリアの性的な倒錯と重層する。誰でもが、同じようなフィルムノワールとしてポランスキーの『チャイナタウン』を思い出すだろう。権力と金銭と倒錯というキーワードはあのフィルムでも同じだった。捜査が進めば進むほど、世界の迷宮が広がり、捜査の結果判明した事実は、別のブラックホールを生んでいくだけだ。そして、ポランスキーのフィルムに存在しなかったバロック的とも言える映像の演出がこのフィルムにはある。『カリートの道』に横溢していた虚しさがこのフィルムにも渦巻いている。だが、唯一の難点は、ハリウッドには存在感のある老人が減ってしまったことだ。事件の大立て者として存在する老人たちの奇怪さが、『チャイナタウン』に出演したジョン・ヒューストンが備えていたそれに遠く及ばないことだ。

10月14日より、全国ロードショー
http://www.black-dahlia.jp/