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October 27, 2006

「パラレル・ニッポン 現代日本建築展1996-2006」東京都写真美術館
梅本洋一

[ cinema , photo, theater, etc... ]

 写真と建築との関係はとても興味深い。いわゆる建築写真は、周囲の人々をなるべく写さず、建物そのものを写し出す。建築雑誌の掲載されている多くの写真は建築写真だ。この展覧会──ちょっと小振りで残念だったが、ひとつのテーマに2枚ずつの写真が展示されていて、「パラレル・ニッポン」と呼んでいる頑張った展示──に展示されているのも、ほとんどがそうした建築写真だ。確かに建物そのものを理解するためには建築写真は合理的なものだが、この展覧会には、それに加えて美術館収蔵の写真家たちの作品が付加されている。入り口でチケットを切られる前にそれらが展示されているのは、添え物のような感じがしてちょっと残念だが、たとえばアラーキーや宮本隆司の写真──アラーキーのものは首都高から覗くアークヒルズを写したもの、そして宮本作品は廃墟になった日比谷映画の内部を写した有名なもの──を見ていると、建築物そのものに寄り添うような建築写真と彼らの作品の差異がとても明瞭なものに見える。
 彼らの作品には、その写真が撮られた時代がかなりはっきり写し込まれている。もちろん建築写真も、建築そのものが時代の産物である限り、必ず時代は写るのだが、周囲の環境や地理的制約と言った建築家たちの眼差しの内部でそれらが撮影されている。大文字の歴史の中で、その運動し移動しつつある大きな時間のうねりの中で、一枚の写真が建築物を捉えるという作業は、建築写真の仕事の外側にある。渋谷から溜池に向かう首都高の上に突き出るようなアークヒルズは、後に六本木ヒルズが東京に君臨するための準備段階に見える。廃墟になった巨大な映画館、日比谷映画は、もう時代が巨大な映画館など必要とせず、ショッピングモールの中にあるシネコンしか必要としていないことをもの悲しく語っているようだ。事実、日比谷映画の後にはシャンテができた。アラーキーや宮本隆司が撮った建築物の写真を見ていると、建築物と時代とは切っても切れぬ関係にあり、ぼくらもその時代の大きな流れに流されつつ生きて行かざるを得ないことを感じる。
 それに対して建築写真は、晴れやかだ。当該建築物の晴れやかな完成とその主張とを同時に示している。建築物の意図を理解し、建築家たちの作業を学ぶには建築写真の方がずっと役に立つ。写真に添えられた文章を読み、写真を眺めると、建築家の引き出した解が説得力をもってぼくらにも導き出せる。そしてカタログで五十嵐太郎が解説するように、この10年、建築はシンプルで透明なモダニズムに向かっていることが明らかに分かる(その意味で荒川修作によるカラフルな集合住宅は本当に奇怪に見える)。
 だが、そんな晴れやかな解の延長線上にある建築物も、日比谷映画のような廃墟になる運命にある。写真は建築物よりも長い生命を持っている。