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December 6, 2006

クロード・ジャド追悼

[ cinema , cinema ]

 数日前朝刊の死亡欄の片隅にひっそりとクロード・ジャド死去の記事が掲載された。58 歳とあった。ぼくらが初めて彼女を見たのはトリュフォーの『夜霧の恋人たち』だったから、当時、彼女は20 歳。現実の年齢と役柄の年齢は一致していたようだ。もちろんヒッチコックの『トパーズ』や熊井啓の『北の岬』にも彼女は出演しているけれども、ジャン=ピエール・レオーがアントワーヌ・ドワネルであるように、彼女は、ぼくらにとってクリスティーヌ・ダルボンだ。
 トゥビアナとドベックによる評伝によって、トリュフォーは彼女と結婚するために式場を予約し、ドタキャンしたことも知っている。知っているけれども、そうしたトリュフォーの恋愛談は枚挙に暇がない。クロード・ジャドは、『家庭』、『逃げ去る恋』でドワネルと共に成長していった姿をぼくらに見せてくれた。ドワネル・ガールズ(?)が一堂に会した『逃げ去る恋』の彼女は本当に美しかった。ちょうど30 歳の頃だった。
 『夜霧の恋人たち』ではデルフィーヌ・セーリグと共演している。鏡の前のアントワーヌが、「クリスティーヌ・ダルボン、クリスティーヌ・ダルボン……ファビエンヌ・タバール、ファビエンヌ・タバール」と何度も繰り返して固有名を力を込めて発語するシーンは印象的だった。一度見たら、忘れられないシーンだ。何が起こるわけでもない、とても軽いコメディーにも見える『夜霧の恋人たち』は、再見する回数を増すほど素晴らしいフィルムに見えてくる。トリュフォーのフィルモグラフィーにおいては、ドワネルものの3作目に当たるフィルムだが、どの細部においても演出上の発見──それを列挙すればこのフィルムの全体を語ってしまえるほどだ──に満ちていて、再見すれば、必ず再発見がある。68年の5月を背景にしつつ、そんな政治の季節はまったくフィルムに見えず──クリスティーヌは一度デモに出かけるが、デモそのものは見えない──、奇妙にアナクロニックな「古いパリ」がシャルル・トレネのシャンソンに乗って見えていただけだ。
 クリスティーヌをいつも尾行している奇妙な男がいる。その男は、公園のベンチに腰を下ろしたアントワーヌとクリスティーヌの前に姿を現し「ぼくは永遠だ」と言って去っていく。そう、恋愛なんて「つかの間」のものだ。フィルムのラスト近くでアントワーヌとクリスティーヌは永遠の愛を誓う──結婚を約束する──が、『家庭』でふたりの仲は決定的に亀裂が入り、『逃げ去る恋』では協議離婚してしまう。『夜霧の恋人たち』でアントワーヌがたった2時間一緒に過ごしただけのダバール夫人との時間は、その短さゆえに「つかの間」なのだが、アントワーヌにとって(そしてぼくらにとっても)「永遠」の2時間のように感じられた。
 人の人生なんて「つかの間」のものだ。クロード・ジャドも、デルフィーヌ・セーリグももうこの世にいない。