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March 26, 2007

広瀬始親撮影写真「横浜ノスタルジア──昭和30年頃の街角」
梅本洋一

[ book , photo, theater, etc... ]

 旧横浜郵便局をリノヴェーションした横浜都市発展記念館で開催されているこの写真展を見ると、本当に困ってしまった。ぼくは、ノスタルジーはよくない、かつてあったものを懐かしむことは保守的な感性だ、と言い続けてきたし、今もそう思っている。だが、この写真展に展示されている写真を見ていると、もうどうしようもない喪失感に襲われて、それをノスタルジーだと言われてしまうと、納得せざるを得ないのだ。本当に困った。
 開港百年祭にわく伊勢佐木町、露店が並ぶ野毛大通り……それらはまさに幼少期のぼくが目にした光景そのものだ。そして、日ノ出町の材木置き場で手作りの拳銃で遊ぶ3人の少年──そのひとりはぼくにそっくりだ。横浜開港百年祭を両親に連れられてぼくは伊勢佐木町で見た。母の弟のひとりは戦後の野毛に露店を出して用品を売っていた。ぼくも針金やボール紙で拳銃を作ってバンバンぶっ放していた。桜木町駅は、根岸線がまだなく太田川を市電が越えていた。村野藤吾の横浜市役所の完成をぼくは4系統の市電の中から眺めていた。背後には開港記念会館の塔が見えた。本牧の三渓園の前で潮干狩りをしたこともある。大桟橋にはカロニア丸が停泊中で、出港のテープが舞っている。つまり、ぼくは、そこにいたのだ。ぼくの毎日が、4歳から7歳までのぼくの毎日がこれらの写真の中に封じ込められている。ぼくは、それらの多くのことを忘れていたのだが、これらの写真を前にして、突然、それらの記憶がぼくに甦ってきた。これは困ったことである。
 だが、写真は過去を美化したりはしない。手作りの拳銃を持った子供たちの服装は貧しく、開港記念会館を背景にした4系統の市電は満員で、野毛の露店は闇市の名残で、本牧のフェンスの向こう側──鉄条網の向こう側──は占領軍の住居だった。来るべき高度経済成長の兆しが村野藤吾の横浜市役所の建設と根岸線の建設だった時代のことだ。ぼくらは貧しかった。横浜駅近くのニューライオンでビールを飲む父の傍らにあるそら豆をつまみながら、父の視線の方角を見るとそこには大相撲の初代・若乃花が映っていたのを明瞭に覚えている。家にはテレビがなかった。大桟橋のカロニア丸の一等用のラウンジを見学したとき、足の下のカーペットの柔らかい厚さを今でも覚えている。ぼくらは建ったばかりの51Cの団地の住人だった。
 広瀬始親はアマチュアの写真家だったが、彼の写真を見ていると、そこにぼくのかつての時間が封じ込まれているのを感じる。