« previous | メイン | next »

April 30, 2007

『カイマーノ』ナンニ・モレッティ
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

「うまくいってる?」と聞かれたら、いつだって大声で「そんなわけない!」と言い返さなきゃならない。「万事快調!」なんて瞬間はそうそう訪れるはずもなく、誰もが常にトラブルを抱えている。斜め読みした脚本をサスペンス映画と勘違いしてヒットするはずもない政治映画の製作を請け負ってしまったり、別居中の夫が新しく知り合った男性からプレゼントしてもらった素敵なセーターをズタズタにしてしまったり、12個の突起を持った黄色の薄いレゴブロックはいつまでたっても見つかりゃしないのだから、男も女も大人も子供も関係ない。「俺が何をした?」とプロデューサーの男は、厳粛なるコンサート会場の壇上に上がってコーラスを勤める妻に叫ぶが、それで解決なんかするはずもない。もう悩んでいる時間なんてない、どうあろうとも映画を撮るしかない。だが家族の事情で映画を降りると告げたはずの名優はいつの間にか、かつて自分のプロダクションを出て行ってしまった老監督の手によるコロンブス映画の主演を演じているではないか。ああ、またしても裏切られてしまった、でも仕方がない、それならば代役を立てるしかない。やけっぱちなままに撮影は始まり、その現場でとんでもない物量の撮影機材を見た子供たちは「一体どうするの?」と父親に問いかけるが、そんなことに返せる答えなど持ち合わせちゃいない、とにかく今はただやるべきことをやるだけなのだと受け流す。そして、映画内映画「カイマーノ」の撮影が始まると、ついにベルルスコーニの代役にかつてこのフィルムの制作に決して好意的ではなかったはずの男が選ばれたことが明らかになる。それがこの現実のフィルムである『カイマーノ』の監督、ナンニ・モレッティその人の姿だということに、深い感銘を受けずにはいられない。


 このフィルムが政治的であるとすれば、それは「ベルルスコーニ」という固有名がその中心にあるからではない。それは、ここにいる誰もが常にトラブルを抱えつつも、それでも生きていくほかないということを、きわめて単純でそれでいて過酷な事柄を、ただひたすらに受け容れているからだ。そして何よりもこのフィルムが、家族を、愛を、そして映画そのものを、様々な戸惑いの中に実直に語っているからなのだ。離婚という結論をようやく導いたプロデューサーと元女優の夫婦が、併走する自動車において試みる「ダンス」の美しさは、このフィルムにおける政治的主題から決定的に距離をおいた、きわめて映画的な「見ること」についての演出であるがゆえのものだ。『カイマーニ』は「政治映画」などではなく、あくまで「ただの映画」であろうとするがゆえに、政治的なのだ。
 無論、モレッティにおいて「ベルルスコーニ」という固有名がどれほど重要な名前であるかなど誰もが知っていることなのだが、すべての問題がそこに収束していくわけではない。一本のフィルムが必ずしも作家の手の中にだけあるわけがないのは当然のことだが、しかし幾らかの予算によって、いくらかの人の手を預かることによって、それが製作されるのだとすれば、その一本のフィルムを作った者は、それに関ったということを否定などできないはずだ。一本のフィルムが始まったのならばそれを終わらせることは、リヴェットに倣えばひとつの「約束」なのだ。その「約束」とは映画の製作における商業的な意味での約束にとどまるものではなく、キャメラの前に佇むあらゆるすべてとの、すなわち「世界」そのものと「私」との、破ることの許されない倫理的な「約束」であるはずだろう。「ベルルスコーニ」という名前は、ひとつの重要な政治的な問題でありつつ、同時にひとつの映画に伴うただの口実に過ぎないのであり、その重みは一組の夫婦のメロドラマと変わるはずもない。
 映画内映画「カイマーノ」のラストシーン、裁判に破れたモレッティ演じるベルルスコーニは、自らの敗北は民主主義の敗北であると報道陣に告げ、黒い高級車に乗り込んで颯爽と立ち去っていく。原告側にはベルルスコーニの支持者から火炎瓶が投げつけられ、裁判所には一筋の炎が立ち上る。その炎をリアグラス経由で背負いながら、クレジットが流れ始める一瞬のブラックアウトまで、モレッティはその厳しい表情を崩さない。架空のフィルムの終わりを自らのフィルムの終わりに重ね合わせ、そのフィクションが終わる最後の瞬間に圧し掛かる「責任」と呼ぶほかないものを、自身の表情だけに負わせたナンニ・モレッティ。その視線は『カイマーノ』というフィルムそれ自体に向けられたものであり、そして同時にスクリーンの前に座る私たちに向けられたものでもあることは言うまでもない。

イタリア映画祭2007