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May 2, 2007

『フランドル』ブリュノ・デュモン
梅本洋一

[ cinema , cinema ]

 『ジーザスの日々』『ユマニテ』と続くデュモンのフィルムの中でもっとも完成しているのが、このフィルムであることはまちがいない。もちろん、完成とはいったい何なのか、という問題もあるだろう。明確な回答は見つけられないが、もしこのフィルムが「欲望」と「現実」を描きたいとするなら、その延長線上にこのフィルムが来ることは明らかだろう。「欲望」と言っても、固有のそれではなく、つまり、ぼくが君を求める、というものではなく、女であることによって、男性の性器を求めるということ、あるいは「現実」といっても歴史の中で、固有の時刻の中で生起する出来事という意味ではなく、「土」とか「血」といった物質性という意味においてのことだ。
 レフェランスを見つけるのは難しい。このフィルムの女性の主人公であるバルブ(アドレイド・ルルー)の感情を殺したような態度がブレッソンの『少女ムシェット』を思わせ、デメステル(サミュエル・ボワダン)が送られる戦場における、時刻も地理も判別しがたい行軍──それにしても何のための戦場なのか?──が、ガス・ヴァン・サントの『ジェリー』を思わせはするが、『フランドル』がそうしたフィルムの系譜に繋がることはないだろう。
 自らの出身地フランドルを描くデュモンのキャメラには、その中で男たちとセックスをし精神に障害を来すバルブのようにまったく愛がない。このフィルムの宣伝文句にあるような、美しい自然など、彼の描くフランドルには存在しない。凡庸きわまりない起伏のない風景と、単に寒さを示すだけでしかない雪が降るだけだ。
 デメステルが送られる戦場も同様だ。フランドルという土地が、単に凡庸な場所でしかないように、砂漠──チュニジアでのロケだ──が続き、目的を欠いた行軍の中で、人々が、青年も子どもも女も殺されていく──死んでいくのではなく──だけだ。何のために? 一方が生き残るためだ。デュモンは、この戦場を「コレグラフ」されたアメリカ映画のそれとは反対なものとして示したかったと言っている。それは成功しているが、この戦場にいる人々は、生理的なアクションとリアクションを繰り返すだけだ。そんなことが、本当にできるのだろうか?
 つまり、フランドルでもチュニジアでもなく、バルブでもデメステルでもなく、四季がある凡庸な土地と砂漠、単に男と女。何もない場所での「平和」と歴史を欠いた「戦争」。その意味で、『フランドル』は極めて抽象性が高いフィルムであると言える。この90分余りのフィルムを見ている間、ぼくらは、異様なまでの居心地の悪さに捉えられる。このフィルムがむき出しの欲望と、抽象的な現実ばかりを執拗に描き出し、ぼくらがどの登場人物にも同化することができないばかりか、愛や戦争の目的を少しは信じているからだろう。だが、そんなぼくらの「甘さ」をあざ笑うような執拗さで、ぼくらの居心地の悪さを無視する強度を込めて、デュモンは『フランドル』を完成させているようだ。