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May 5, 2007

『わたしたちに許された特別な時間の終わり』岡田利規
梅本洋一

[ book , sports ]

 斎藤美奈子の書評に誘われて岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』を読んだ。コケた映画を上映中の映画館で出会った男1と女1、女1は男1をライヴハウスに誘い、男1は男友達数人とライヴハウスに出かけるが、そこに女1はいない。そのライヴハウスでやっているのは、反戦系のパフォーマンス。そこで男1は女2に出会い、ふたりは渋谷のラブホで数日間を過ごす。2003年3月のこと。イラクの戦争がラブホにいる間に終わっているかもしれないと思いながら……。そんな物語なのだが、小説を読んだ人は、そんな筋が重要でないことは百も承知だろう。
 それぞれの話し言葉で情景が語られる無限に続くような贅言。だが、贅言といっても、それはこの小説の場合、決して否定的なものでなく、その贅言が極めて今の若い人たちの話し言葉に近接していて、その微少なうねりが、凪の中でもわずかに寄せては返す波の波紋が異なるように、読む者を飽きさせることがない。そして、ぼくにとって感動的だったことは、もう書いてしまったように、世の中とも世界とも切り離されてラブホにいて、2ダースもコンドームを使うこのカップルが、それでも世界から切り離されることがなく、イラク戦争という「時刻」によって、世界からの逃走を許されていないことだ。
 そして、この小説が岸田戯曲賞受賞作の『三月の5日間』という戯曲の小説化であることも知った。最近、演劇の現場から遠く離れているので、近年の傾向などは一切知らないが、この小説を読んで是非岡田利規の演出を見たくなった。固有名が横溢し、時刻が明瞭すぎる形で示され続けるこの小説が戯曲だったことなど信じられなかったからだ。舞台とは具体的であるがゆえに時刻や固有名と近接していると思えるのだが、実はまったくその反対で、抽象的で身体的なものだからだ。DVDを借りて見てみた。何の装置もない裸の空間に、普段着の衣裳の俳優たちが、手足をブラブラさせながら、小説で読んだことのある台詞を話していた。物語は少し違っていたがおおかたは同じ。具体的に俳優たちの言葉を聞いていると、その分節のされ具合がイヨネスコを思わせるものがある。だが、イヨネスコの場合、演技にはレアリスムが要求され、言葉と身体所作との差異が大きな亀裂を生んでいくのだが、岡田利規演出の舞台を見ていると、手足のブラブラぶりと贅言が奇妙なリズムを生んで、最初は差異に見えたものが、そうは感じなくなり、ごく自然な所作に見えてくる。どこからこうした身体所作が生まれ、そこに贅言を乗せる表現法をどのように発想したのだろう。興味深いパフォーマンスだった。