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June 17, 2007

『6, Rue des Filles du Calvaire,Paris』阿部海太郎
藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)

[ music , sports ]

 こと対象は建築物に関わらず、何かものを創りだすという作業の課程のふとした瞬間に、深い森の中を手探りでさまよっているような、あるいはどこか狭い閉じられた場所をぐるぐると巡っていくような、もしくは流体の中をふらふらとたゆたっているような、ある種「移動」の感覚を伴う瞬間がしばしばあるように思う。それは、「今」、「ここに」、「無い」、もの生み出す上で身体的にその現実感を獲得するためには大変重要な感覚で、そうしたどちらかというとオカルト的精神的移動の反対に、一般的には「旅をする」という直接的な身体経験が位置づけられ、偉大なアーティストがその自らのキャリアの始まりにグランドツアーを企てて、「今」、「ここに」、「無い」、何かを身体化したりするのはよく耳にする話だ。そうした「旅をする」という直接的で過剰な身体経験は、確かにある新しい感覚の獲得を強烈に促すのだと思うけれども、私が今ここで取り上げたいのは、様々な場所様々な時間にそこに在った音や様々な場所で生み出された音が数珠繋ぎ状に記録された一枚の音源、「旅そのもの」であるような音源、「6, Rue des Filles du Calvaire,Paris」である。

 6, Rue des Filles du Calvaire,Parisという住所は、音楽家阿部海太郎氏が2005年にパリに留学していたときに滞在していた場所で、私はあまりパリの地理に詳しくはないのだけれど、少しいかがわしくて何やら不思議な魅力が感じられるような街だというような話をパリ出張の折に海太郎氏が私のホテルを訪ねてきてくれた際に彼から聞いたような気がする(私はうかつにも旅のつかれで終始ウトウトしていたから実際にはもっと違うような描写だったかもしれない)。そんな少しいかがわしい街6, Rue des Filles du Calvaire,Parisを中心とした彼のフランスでの生活の中に流れる音のフィールドレーコーディングには、例えば欧州の駅のざわめきやレストランでの食器の奏でる音や地下鉄でのストリートライブや教会の鐘の音の断片などがレコードされている。音はその場所の反響や吸音やノイズの影響を正確に反映しているから、フィールドレコーディングとは、単にフィールド(外)で音をレコード(記録)しているだけでなく、フィールド(場)のレコード(記録)でもあり、フィールド(野生)なレコード(記録)でもあるのだと思う。読みとれるかどうかは別として、多分この音源を耳にしているあなたのその耳にはその場所の硬質感、奥行き、時間帯、季節、混雑具合、もしかしたら臭いみないなものや記録者である海太郎氏の気持ちの高ぶりのような要素もその音の因子として入ってきていて、それを脳みそというかあなたの身体が意味のある情報にまで正確に再現できるかどうかは分からないけれど、しかし少なくとも彼の記録した音の数珠繋ぎを聞いているだけで、極めて空間的で映像的な体験を伴うことになるから、きっと何かしらは身体化されていっているのではないかと思う。
 今私は彼の記録した音と書いたけれど、実際この音源には彼が作曲し演奏した音もたくさん含まれていて、ひとつひとつ大変に素晴らしいクリエーションなのだけれど、この音源を前にしたときにいわゆるフィールド(外での)レコーディング(記録)と創作された楽曲との差異を問題にすることは適当ではないと思える。それは創作された楽曲も全ては彼が6, Rue des Filles du Calvaire,Parisという場を中心とした生活の中でレコードした音であり、曲だけを記録したいというよりか作曲し演奏した場所と時間とを彼はおそらく最も記録したかったのではないかと思うからだ。この音源がつくる、愛らしく、切なく、勇気に満ちていて、都市的で、美しい場の連続に包まれていると、いつまでもずっとここにとどまっていたくなるような安らかな気持ちになってくる。
 こうした場の連続を記録した音楽家阿部海太郎氏が、今、ここ、東京で音楽を奏でているという事実が、何よりも素晴らしいと思うし、彼の奏でるその場にできるだけ多く足を運びたいと本当に思う。

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