« previous | メイン | next »

August 3, 2007

『コンナオトナノオンナノコ』冨永昌敬
鈴木淳哉

[ cinema , cinema ]

 たまさか、スチール撮影で末席に加えてもらったということで呼んで頂いた試写会場で、いくらそのスクリーンに投影された光によって、なにやら色々な感情が沸き上がって来るのを感じ、そのいくつかの言語化に成功したとはいえ、それを即座に他人にも理解できるよう文章化するには、いかにも私の機知などが及ぶところではなく、また、油断すると監督の姿を見つけるやぬらりと脂ぎった顔で、その検討外れの称賛など投げかけるといった暴挙に誘う衝動も恐ろしく、誰とも目が合わないうちにソソクサと連れを伴ってファミリーレストランに向かった。
 前置きが長くなったのは、文章を書くことに劣等感を持ち、その劣等感を克服する事自体投げた人間が、小さなWebサイトとはいえ、公の場に文章を発表する事への最低限の慎みであると思ったものの、事実、帳尻合わせというより今後読み返すであろう私へのエクスキューズ以外の何物でもなく、そんなことを長々と書き、人に読ませて平気なその厚顔をこそまず恥じるべきと、気付くのがやはり遅い。
 では、なぜ書くのか、という問いには、この映画のラストに向かうシークエンスによって、人間には、いま、ここからしか見ることのできない、未来や過去からの視線など相手にしている暇もないほど、取り替えの効かない現在を生きることがあるのだと確かに教えられたからだ。と答える。
 ファーストシーンで発生した小さなズレ、それが、物語の進行にあわせて、あるものは階段をかけあがり、牧場まで走り、三輪車をころがし、三輪車を追い、またあるものはベッドの上で、橋の下で、母の居場所で、待つことによって、勿論また、その間じっと辛抱強く見守ったものたちによって、少しずつ丁寧に拡張、増幅され、ラストにはしっかりと手触りを感じさせる非常に巨大なものとなった。ちょうど随所で囁かれた声が、ピアノが、ギターが、歌として結実したように。あとついでにとうもろこしもでかくなった。ともあれ、冨永昌敬監督はきっちり落とし前を着けたのだ。