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November 15, 2007

『ラ・ヴァレ』バルベ・シュローデル
結城秀勇

[ DVD , cinema ]

 全編ニューギニアロケで撮影されたこの映画の撮影がどのようなものだったのか、出演者やスタッフのひとりひとりに聞いてみたい気がする。70年代前半、ネストール・アルメンドロスとともに、ギニアでのいくつかの短編ドキュメンタリーやウガンダでイディ・アミン・ダダのドキュメンタリーなどを撮影しているシュローデルだが、この映画においては撮影の過程がそのまま、未踏の地への旅というこの映画のストーリーそのものになっていたのではなかろうか。
 大使夫人にして同時に商人であるような女を演じるビュル・オジエ。彼女は商品である「羽根」を求めて、「谷」へと向かう一団の中に加わっていく。地図に空白としてだけ記されるその場所をジャン=ピエール・カルフォン演じるガエタンは楽園として意味づけるのだが、一行の他のメンバーが果たして彼のそんな言葉をどう考えているのかを知るすべはなく、実際のところなぜ彼らがその場所へと向かうのかなどどうでもいいことかもしれない。外部から「谷」に近づいていくものにとっては、その周辺部は価値を産出する場であるかのように見える(原住民との交易、貴重なコフクチョウの羽根、あるいはスピリチュアルな魅力)。事実、オジエはこの映画の前半で「谷」「羽根」「月」「蛇」といった単語の響きを通じて、役柄を変貌させていく。
 しかしある地点を越えると、そんなものは何の意味も持たなくなる。オジエが演じている女などいなくなり、気付けばそこにはオジエそのものがいるだけだ。はじめに訪れる集落の祭礼は、所詮エキゾチックなものとして資本に回収されていくにすぎないが、さらに奥地にある村を描いたシーンの連なりはもはや言語を絶している。そこでは意味ありげな単語など無用のものである。村人の歌声と色彩がスクリーンを満たすのを見るのは、単純にかなりの快楽だ。映画が映画であることを露呈する。もはや「谷」なんてどうでもいいのではないかとすら思う。
 だが彼らは楽園そのもののような村を去り「谷」を目指す。そこから先にあるのは疲弊である。カメラの前の人々を、そしてカメラの後ろの人々をも、山の冷気が実際に蝕んでいるだろうことはまず間違いない。そんな中に現れるあのラストの光は、逆説的にそこが楽園などではないことを明らかにする。「楽園に出口はたくさんあるが、入り口などない」。貧しさの中へ抜け出て、映像を持ち帰ってくることで映画が初めて完成する。楽園を作り出し、楽園を通り過ぎて、楽園でもなんでもないただの「谷」に辿り着き、なおかつそこから帰ってくること。


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