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November 26, 2007

『サッド ヴァケイション』青山真治
藤原徹平(隈研吾建築都市設計事務所)

[ cinema ]

 若崎と戸畑を結んでいる若戸大橋は、不思議な橋だ。その赤くペイントされた橋は、ずいぶん高いところを通っていて、確かそれは東洋一高い吊り橋だと誰かに聞いた気もするけれど、それにしても随分と高いな、あるいは遠いなという印象で、街を歩いていてふと目に入ると、どこか現実から剥離したような不思議な空気感を持っている。すぐそこにあるようなしかし無いような存在感に妙に心が騒ぐ。それは、若崎と戸畑を結んでいる。確かに。しかし、この橋は、その現実離れしたその高さのせいか、あるいは見える角度のせいか、どこかとどこかを具体的に結んでいるというよりかは、こちらかそちらかというような世界を横断するような揺らぎを含んだ存在に感じられる。僕がどうしてこんなに若戸大橋について詳しいかというと1年間戸畑の建築現場に通い続けたからだけれど、ちらちら目に焼き付いた程度でしかないその橋の記憶は驚くほどに強く、そして曖昧だ。そして、フィルムのあちこちにちりばめられた、アイコンとしての若戸大橋の存在は、フィルムそのものを包み込むような安定とそして揺らぎをもたらしている。
冒頭。自転車の二人乗りのシーンから続く、素晴らしいオープニングショットで捉えられる関門橋は、下関と門司という双子の街をつないでいる橋で、その二つの双生児がつくる鏡像的印象は、関門橋というその巨大さからしたら意外に地味で実直とも言って良いほどシンプルな橋によってかえって強められている。
 双子の街というのは意外と少なくて、例えばイスタンブールや香港なんかがそうだが、そうした街には常に鏡像的な物語が生まれる素地があるだろう。見えているあちらは、こちらなのか、あちらなのか。登場人物の鏡像的関係性と関門橋の描写は橋を渡るという運動性を伴ってフィルム全体を貫いている。
不在の父親、母と子、兄弟、集まる人たち。そうした個と個をつなぐこと、あるいは大きく包み込むこと、あるいは離れて見守ること。人の営みを風景が(世界が)許容していくような巨大な寓話がそこにある。女性達の笑顔に応えていたのは、世界そのものだった。久しぶりに体中に生気が満ち渡るような気がした。