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December 22, 2007

『牡牛座—レーニンの肖像』アレクサンドル・ソクーロフ
松下健二

[ book , cinema ]

『モレク神』(99)『太陽』(05)と連作を成す『牡牛座—レーニンの肖像』(01)がようやく公開される。この作品が公開されるまでに実に七年の歳月が経っている。この間、僕は『エルミタージュ幻想』(02)も『ファザー、サン』(03)もそして『太陽』も見てしまっており、ソ連時代から一貫して芸術家であったこの映画作家の動向をすでに目の当たりにしていたのだが、そんななかでも『牡牛座』はまた新鮮に僕の目に映った。
ソクーロフにとって歴史をどのように表象するかというのは、もっとも重要な問題なのだと思う。それは一枚の古い写真をわき目も振らずじっと見つめることであったり、絢爛豪華な迷宮を90分間動き続けるカメラに身を投じたりすることで提示されてきた。そして、『牡牛座』を含む一連の作品では、20世紀の歴史を司ったひとりの人物の極めて精巧な模造品を作り上げることによって試みられる。それは決して模造品たちが再現する物語を通して、すでに固まりつつある歴史に新しい解釈を与えることが重要なのではない。つまり、ここで語られる物語が歴史的に正しいか否かという問題は一度わきに置くことが必要であるだろう。なぜなら物語を演出をしているからには、少しの嘘や誇張もないわけがないし、ここでソクーロフが目指しているのは、そのような歴史に正しくあるために嘘や誇張を排除することではないのである。むしろ、ソクーロフが描いているのは、歴史とは切り離されたごくごく個人的な肖像なのであり、見紛うほどにレーニンとスターリンにそっくりな人物をカメラに収めるというだけで、ソクーロフの試みはほとんど達成されているのではないだろうか。晩年、満足に話すことすらできなくなったレーニン、あるいは研究室でひたすら生物の標本と向き合う天皇ヒロヒト、そういった今までにも語られてきた個人のイメージをスクリーンに具現化してみせたことが、まず何よりも驚きなのである。

2008年2月2日(土)ユーロスペースにて公開予定