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May 26, 2008

『ポスト消費社会のゆくえ』辻井喬 上野千鶴子
梅本洋一

[ book , cinema ]

 バブルが弾けてから、「失われた10年」を経て、いろいろなものがなくなった。バブルの時代までのリードした国土計画やセゾングループがなくなったものの代表だろう。どちらも堤康次郎が起こした西武鉄道に端を発し、一方が堤義明、他方が異母兄の堤清二によって経営されていた。苗場スキー場や軽井沢といったリゾートが国土計画によって開発され、パルコやシネセゾンがセゾングループによって経営されていた。本書は、後者の社主だった堤清二についての辻井喬の回想(もちろん同一人物だ)であり、その回想は上野千鶴子の興味深い質問によって引き出されている。
 80年代セゾングループは文化事業のパイオニアだった。優秀な4大卒の女子の多くは、理想の就職先として西武文化事業部を持っていた。後に分社化されたとはいえ、シネセゾン、シネヴィヴァン、スタジオ200、シードホール、セゾン劇場、パルコ劇場、パルコPart3といった多角的な文化事業を備えた西武文化事業部は、明らかに80年代の東京の文化の先端にあった。ぼくも、観客としても、企画としてもどのスペースにも関わったことがある。最初に観客としてそれらのスペースに言ったのは、81年暮れにスタジオ200でダニエル・シュミットの『ラパロマ』を見たことであり、最後にそれらのスペースのイヴェントに参加したのは、シードホールでヴィム・ヴェンダースと対談した93年の春だった。それぞれのスペースには多くの記憶があり、それぞれ特権的な位置を占めている。だが、とりあえず言えることは、アテネフランセ文化センターや東京日仏学院など別の小さな輪もあったけれど、セゾングループでのイヴェントは、やはり圧倒的な量があって、それは80年代をまっとうしていたことだ。ぼくの最後の経験がシードホールの93年春で、対談の相手がヴェンダースだったことは象徴的かも知れない。
 上野千鶴子は、セゾングループの盛衰を堤清二の個人史と社会史の中に位置づけ、消費者の自立の夢とその挫折といった地図を描いているようだ。まちがっていないだろう。日本の経済はバブルを目指して右肩上がりに大きくなり、バブルの波にセゾングループを押し流され、サホロリゾート等の失敗で、西武百貨店を残して雲散霧消してしまう。もちろん堤清二という実業家もまた大きな歴史の中の存在に過ぎなかったのだが、その渦中にいた時代には、どんな小さなイヴェントも彼のオーケーが出なければ実現せず、彼の趣味(良い部分と悪い部分がある)がセゾングループの文化イヴェントに常に反映していたことは事実として記しておいた方がいいだろう。だから本書を読むことは、ぼくにとって本当にいろいろなことを思い出す契機になったし、ぼくの仕事の多くもセゾングループがなければあり得なかったのも事実だ。何かイヴェントをやりたいときは、西武文化事業部に話を持って行くことが優先順位の1位だったし、特にスタジオ200のイヴェントは、その多くが採算とは無関係だったとはいえ、刺激的なものが多かったのも事実だ。そうしたイヴェントに参加したことが縁で、浜松のパルコや「つかしん」でも同じようなイヴェントをやった。余りお客さんは多く来なかったけれども、「つかしん」では、オーソン・ウェルズ映画祭などもやって、ぼくは『黒い罠』を上映しながら講演をしたこともある。今では考えられない時代があった。堤清二=辻井喬は「私の失敗でした」を片づけることが本書では多いけれど、その時代の検証は、まだまだこれからの作業であることはまちがいないだろう。