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June 8, 2008

『トウキョウソナタ』黒沢清
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 佐々木家の主婦であり母を演じる小泉今日子は、目が覚めたらこれが悪夢であってくれたらいい、というようなことを言う。それまで、平凡きわまりない日常生活を営んでいたはずの、佐々木家には、父の失業をきっかけに次々に事件が起こっていく。否、それもまた日常なのかもしれないが、それまで平穏だと感じられた日常に、一旦、小さな亀裂が入ったように感じられると、佐々木家は世界の荒波にもまれてしまうようだ。
 電車の線路脇に建っている佐々木家には、常に電車の走る轟音が響き渡るし、大学生の長男はバイトばかりで普通の時間に帰宅しないし、父は、肩たたきにあう。そんなこともまた「日常」の内だろう。だが、威勢良く会社を飛び出したのはよいが、ハローワークに行ってみると、初めて世界の荒々しさを遭遇する。あなたのできることは何ですか、という直截な質問に、解答を見いだせない。そして、次男は?そして母は?
 父が通うことになる、ホームレスたちがたむろする炊き出しを行う小さな広場からは、高層ビル群が望まれ、ティッシュ配りをバイトにする長男が配り終えられないティッシュを投げ捨てる川の背後にも、夜の高層ビル群が見えている。高層ビルの中には、平穏な日常を生きる人たちがたくさんいるのだろう。高層ビル群は、登場人物たちが生きている亀裂の入った世界をあざ笑うようにその存在感を誇示しているようだ。
 授業中にコミック雑誌が回ってきたのを教師に見とがめられた、小学校6年の次男は、先生だって京王線の中でエロ雑誌を読んでいたじゃないか、ぼくは前に座っていたんだよ、と言い放つが、俺もおまえを無視するから、おまえも俺を無視しろ、と教師に言われる。おまえがやったことは革命だよ、と次男は同級生に言われる。
 いくつもの小さなエピソードが堆積していき、登場人物たちは、それまで生きてきた自足した世界から一歩ずつ足を踏み出すことになる。自足した世界の外側には、生きるために食べる、生きるために戦争をする、生きるために金が要る、という単純な原則が支配する世界が待っている。母を演じているのも悪いことばかりではないよ、と言っている自足する世界の中心にいる母も例外ではない。自足する世界が、とりあえずの社会的な関係によって一時的に存在するつかの間のものでしかないことを知るからだ。そして彼女も、『大人は判ってくれない』のアントワーヌ・ドワネルのように、海を前にして行き場を失う。
 そう、この世界は、佐々木家の人々ばかりが遭遇する世界ではない。あなたも、わたしも、ぼくも、そんな世界の住人だ。救いはないのか? ぼくらの住むこの世界に救いはないのか?
 否、救いはあるのだ。黒沢清は断言する。救いはある、と。『叫(さけび)』で、『CURE』以来の自らのフィルムを総括したように見える黒沢清は、『トウキョウソナタ』で新たな一歩を荒々しく印している。その途方もない強度にぼくらは驚かされ、同時に、彼が用意してくれた救済に我を忘れて感動している。

9月、恵比寿ガーデンシネマほかにて全国ロードショー