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August 1, 2008

『レディ アサシン』オリヴィエ・アサイヤス
結城秀勇

[ cinema , music ]

『クリーン』の冒頭を飾る工業地帯の夜景に打ちのめされて以来、アサイヤスの映画を見直してそこに映り込むインダストリアルな美しさを持ったものたちを再発見するたびに、愛としか言いようのない感情に心打たれる。たとえば『感傷的な運命』における、陶器という工業製品がそれを作った人間の手に柔らかに包まれる時。あるいは『夏時間』の、すべての身の回りのものがアノニマスな他と交換可能なものへ取り換わっていく中、主を失った家にわずかに残された、それを作った人間と同じ名で呼ばれる日常用品たち。アサイヤスのある種の作品においては、人とものとの接触が、人と人とのそれを越えた感動を与えてくれる瞬間がある。
『レディアサシン』の冒頭ほど近く、港湾の倉庫作業の風景にもそれとは違った意味でだが目を惹かれる。まるで『宇宙戦争』の幕開けを彷彿とさせるクレーンがコンテナをがっちりつかむ動き、構内を走る無人の自走式機械。アーシア・アルジェントの仕事場を映し出す、この映画の中でもっとも日常的な光景を描いたはずのシーンはまるでSFみたいだ。この作品において初めて現れた新しい特徴ではないが、アサイヤスの映画において日常を直観することと、SF(あるいは端的にフィクション)に接近することはなんら矛盾しない。前述した人とものとの幸福な遭遇がある一方で、現実に二重写しにされた日常=SFの世界においてしばしば起こるのは決して幸福たり得ない肉体と工業製品の接触である。たとえば、一発(あるいは数発)の銃弾が肉体の中に撃ち込まれる時。
 インダストリアルな世界と一体化しようとする肉体が、ラバーによって他との接触を断たれる『イルマ・ヴェップ』と『デモンラヴァー』、下着姿のむき出しにされた肉体の背後に銃を隠して、手錠をはめた男の背後に近づいていく『レディアサシン』。こうした作品がSM的な要素を盛り込んでいるのは偶然ではない。ここでのSMとは、サディストとマゾヒストが互いの欲求を安易に交換することでもなければ、互いの欲求を無視することでもない。「slave」という半ば肉感的半ば機械的な響きをもった単語が(その行為自体ではなく)、アーシア・アルジェントとマイケル・マドセンとに相互に快感を与えるのを見ればわかるとおり、アサイヤスにおけるSMとは、放っておけばいまにも接触してしまうふたつのものを引き離しておきそれを観察する一種のダンディズムに基づいている。その時、鉄やゴムや情報といった製品は、人と人との接触の快楽を抑止するために働き、同様に製品自体が肉体の中に埋め込まれ一体化する副次的な快楽すらも宙づりにしようとする。『レディアサシン』の前半部である、アルジェントとマドセンとの会話、すなわち記憶と過去の物語についてのフィルムである部分の長さはそれに由来する。鉄が肉体にのめり込むという代償的な快楽があまりに早く到来しては、このフィルムの問題を他へ逸らしてしまうことになるからだ。
 接触の禁止という拘束を、画面に映るものたちに監督であるアサイヤスが一方的に強制しているのかといえばそうではない。他の誰よりも彼自身がそのダンディズムに拘束されることになるからだ。それだからこそ、それまで情報の導きなしに行動することができなかった女が拘束から解放される最後の瞬間が素晴らしいものになる。もはやカメラは彼女を拘束するものではなく、彼女によって解放され導かれる。ひとりの女が鉄片を片手に、愛する者を追う。その鉄片の行き着く先は愛する者の肉体の中なのか、あるいは彼女自身の肉体の中なのか、はたまた鉄片の介在なしにふたりは接触できるのか。私たちはただそれを固唾をのんで見守ることになる。


特集上映「オリヴィエ・アサイヤスとアメリカの友人たち」
8月2日(土)〜8月29日(金)@吉祥寺バウスシアター