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August 5, 2008

『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー
宮一紀

[ book , cinema ]

 一組の父と子が核戦争後と思しき灰燼と化した大地を延々と歩き続ける。空は暗澹たる分厚い雲に覆われ、そこに鳥の姿などあろうはずもない。寒冷化が進み、灰色の海の水は冷たい。もちろん魚など死に絶えているだろう。どうやら世界には〈道〉だけが残されたようだ。とても危険な〈道〉である。〈悪い者〉が出るかもしれないからだ。それでも彼らはひたすら〈道〉を南下して進んでゆく。多くの絶望的な光景に接しながら、父と子は時おり言葉を交わし、共に歩き続ける。
 興味深いのは、人類がほとんど死滅したからっぽの世界で、彼らがなおも他者に怯えていることだ。そこで想定されているのは〈道〉の周辺に身を潜めて待ち伏せをする収奪者たちの存在である。世界には〈善い者〉と〈悪い者〉がいる。父は幼い息子にそう教えながら、彼自身は決して〈善い者〉の存在を信じていないようにも見える。むしろ彼の取る行動には善悪の判断など些かも介入しない。常に相手を出し抜くため、彼はただ遠方に眼を凝らし、耳をそばだて、嗅覚を鋭敏に保つ。ときには居もしない相手を察知しようと、長い時間枯れた叢の下で息子の手を握って息を潜める。もちろん実際に相手が現れて、息を飲むほどの緊張感が漲る瞬間も幾度か訪れるだろう。だが、たいていの場合、茫漠とした世界に向けられる彼らの感覚は、結局のところ何も感知することなく宙空に霧散する。彼らは疲弊を押して感覚を研ぎ澄ませるが、研ぎ澄まされた感覚のほとんどが不毛であることによって、疲弊はいよいよ進行してゆく。この作品が絶望的な世界を描いているとすれば、それは彼らの感覚の不毛さがあちこちで渦巻いているからだ。世界が捉えどころのないものだとすれば、世界は絶望的である。だが一方で、この作品が救いを描いているとすれば、それは父と子が、追い剥ぎに遭っても、病に伏しても、あるいは死してなお、世界を捉える感覚だけは決して捨てなかったからではないか。父が幼い息子に最期まで唱え続けたのが「Take a look at」という言葉であったこと。そのことがただただ感動的である。
 ところで、SF小説作品としてはネビル・シュートの『渚にて——人類最後の日』、あるいはハーラン・エリスンの「少年と犬」(『世界の中心で愛を叫んだけもの』所収)でも黙示録的な世界がアイロニックに描かれていたが、『ザ・ロード』はむしろ近年のアメリカ映画の系譜に属している気がしてならない。『アイ・アム・レジェンド』や『ベオウルフ/呪われし勇者』が教えてくれたのは、「伝説」や「勇者」が何の救済にもならないということだった。カタストロフを覆すことのできるような特権的な存在はすでになく、残されたのはどうしようもない救い難さである。そうした事後的な世界で人々がどのように振る舞うかが示されたのが『ミスト』や『ハプニング』、あるいは『宇宙戦争』といった作品群だったはずだ。結城秀勇も指摘しているが、そこにあるのは物事の因果関係や物語の顛末などではなく、「現実を堪え忍ぶ」人々の有り様だ。世間では『ザ・ロード』に登場する少年を「新人類」と捉える向きもあるらしい。実際、著者のコーマック・マッカーシーはこの作品をかなりの高齢で授かった息子ジョン・フランシスに捧げていて、そこには何かしら託す思いもあるのだろう。だが、そこに希望を見出して安堵する気楽さは厳に慎まなければならない。いま、このような作品群がアメリカから立て続けに発表されている現実にそろそろ私たちは目を向ける(take a look at)べきである。