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October 23, 2008

『シルヴィアのいる街で』ホセ・ルイス・ゲリン
結城秀勇

[ cinema , sports ]

 最初に主人公の男を映し出したショットから既に監督の技量は明瞭に示されて、この作品を見て間違いはなかったことは明らかなのだ。それにとどまらず、そこから続く80分余りの時間は、まるで次第に活性化されていく自らの視覚と聴覚に翻弄されるかのような体験だった。
 ストラスブールのカフェ。賑わう昼下がりオープンテラスで、それぞれの客が自らの連れと談笑し、見つめ合い、あるいはひとりで佇んでいる。建物のガラス窓を背に道路に向かって席をとったひとりの男が、居並ぶ人々が形作る多彩な顔のレイヤーを眺めやってスケッチをとっている。男が姿勢を変えるごとに、そのレイヤーは巧みに表情を変えて行く。まるでこのドイツ=フランス国境の街、いやその現実の街をもとに音と映像によって構成される「シルヴィアの街」が、あたかも男が目にする「彼女たち」の顔のパッチワークで出来ているかのように。
 ふとした偶然から、それまで座っていた席を移動した男は、彼が眺め、描いている女性たちすべての顔が織り込まれ映し出されたガラス窓の照り返しの向こうに、その女を見つける。かつて見知った女性シルヴィアの面影を持った女。
 いまは既に去った女性の面影を追い求める男、そして彼は旅行者の目を持つゆえに、彼女の面影は都市の表情と音響とに深く結びつき分かちがたい融合を起こしていること。それが私に一編の小説を思い出させる。ジョルジュ・ローデンバックの「死の都ブリュージュ」だ。死んだ妻の喪に服し、風景も音響も灰色に染まった街ブリュージュに滞在する男が、ある時亡き妻に酷似した女に出会う小説。ドミニク・パイーニは、ヒッチコックはこの小説を翻案し『めまい』を作ったのだと語っていた。
 歩行者の靴音が響き、路面電車が光を反射するこの街で、すべてのシルヴィアでない女性の面影をもとに、男は映像としてのシルヴィアを見つけ出す。不可視の女性を、「シルヴィア」という名前の響きだけを手がかりとして捜索するこのめまいに満ちた探偵物語が幕を降ろしたとき、これが私たち観客にとってもまさしくひとつの旅、ひとつの冒険に他ならかったことに気づく。

第21回東京国際映画祭 ~10/26