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December 16, 2008

『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』ジョージ・A・ロメロ
結城秀勇

[ cinema , music ]

 この映画を見て、巷ではそれなりに評判の高い『クローバーフィールド/HAKAISHA』(マット・リーヴス)を、なぜちっとも面白いと思えないのかがよくわかった。冒頭(というか作品全体の構造)の形式の差異はひとまず脇に置いておくとすると、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』の序盤におけるカメラを持つ男の視点と、『クローバーフィールド』の終盤までのカメラを持つ男の視線は、確かによく似ていると思う。でもここで本当に似ているのは、カメラの視線そのものの相似(ブレ、視界の狭さ、あるいは見る対象そのものがある種のモンスターであること)というよりも、カメラが捉えているもの及びカメラが回り続けていることに対するその他の登場人物のリアクションなのではないだろうか。『クローバーフィールド』『ダイアリー・オブ〜』そして『リダクテッド』(デ・パルマ)という今年公開されたアメリカ映画のうちの3本に共通している、登場人物が持つ手持ちカメラの映像がそれぞれ作品全体に与えている影響とは、映し出された映像における美学的な機能というよりも、カメラを持つ人間のどうしようもないウザさという物語上の人物の性格的特徴に還元できるのではないだろうか。この3人のカメラを持つ男に共通して、名誉欲や野次馬根性、火事場泥棒的な動機から撮影行為が開始されるにも関わらず、ある地点で何かそれより大きな使命感に支えられているんだというすり替えが行われていくのは偶然ではないだろう。その詳細についてはまた場所を改めて書きたいが、人間の主観に非常に酷似していながらもそれとは決定的に違う手持ちDVの視線が持つ居心地の悪さと、カメラを持つ男の尋常じゃないウザさのキャラクターとが、2008年のこの3本においてアメリカ映画の中においては決定的に結びついてしまった。
 で、前置きが長くなってしまったが、そうした共通項を持つ『クローバーフィールド』と『ダイアリー・オブ〜』の間の差異とはなにか。それは映画が始まるとすぐにわかる。撮影されたままのテープが発見されたという体裁の『クローバーフィールド』とは違って、『ダイアリー・オブ〜』はちゃんと編集されている(音楽までついてる)ということだ。物語の進行に伴って、撮影=編集(フラッシュバックさえも!)が同時に基本的にたったひとりの人間によって行われていた『クローバーフィールド』を見て思ったのは、たったひとつの才能=主観が撮影するだけで完成してしまっている映画というのは、展開する凄惨な状況とは裏腹に牧歌的だなあということだった。
 そのことに対する不満を『ダイアリー・オブ〜』は解消してくれた。混乱を極める状況を撮影しインターネットにアップして世の中の役に立てようという監督兼カメラマンの発言のすぐ後に、「結局、さまざまな人々が主観的な記録をインターネットに載っけたが、それらは状況を混乱させただけだった」と言う編集者である女性のナレーションが続く。監督兼カメラマンと、その恋人でありこの作品の編集である女性、『ダイアリー・オブ〜』の劇中劇「DEATH OF DEATH」にはふたりの作者がいる。このふたりの間で手渡されるカメラが、『クローバーフィールド』でも同様に行われるカメラの引継と好対照を示している。後者ではただ主観が別の主観に引き継がれたということに過ぎないが、前者においてはカメラが受け渡されることは「もうそれはただの主観ではない」という宣言がなされる瞬間だからだ。ゾンビに噛まれた監督は、拳銃とカメラを彼女に渡して言う。「Shoot me!」。
 いや多分、本当に大事なのはそのふたりですらない。ご都合主義的に発見される2台目のカメラこそが、この映画の倫理そのものなのだ! 上記のカメラ受け渡し場面の直前にある、監督と恋人との口論を切り返しで撮ったショットについて触れておかねばならない。説得を試みながら相手である恋人の顔を正面から捉える監督の手持ちカメラ。その画面の片隅で彼女の背後に立つ男が、すっと2カメを肩の上に構える。ショットが切り替わり、彼女の背中越しにカメラを回している監督の姿が映し出される。この背中越しの切り返し、一見主観に充ち満ちた物語の中に第三者を関係づけていく手法について、廣瀬純がゴダール『アワーミュージック』の中に見出した「バック・トゥ・バック」の切り返しを思い浮かべた(「バック・トゥ・バック」というコンセプトについては、nobody29に掲載予定の廣瀬純「ショット/切り返しショット、ゴダール/レヴィナス」を参照ください)。

銀座シネパトス、池袋シネマサンシャインにてロードショー中