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February 28, 2009

『このあいだ東京でね』青木淳悟
渡辺進也

[ book , cinema ]

 書き始めておいて何なんだけれども、実はまだこの『このあいだ東京でね』を僕は全部読み終わったわけではない。言い訳するわけではないけれども、それでもこうやって見切発車であろうと書き始めてしまうのは、一刻も早くこの本が店頭に並んだことを知らせたいという気持ちが強いからなのである。おそらくこれはここ数ヶ月で最も心躍らせる本だから。
 そもそもこの本と真剣に向き合ったとしたら、2、3ヶ月は平気で時間を必要とするのではないかと思う。たとえば、本のタイトルにもなっている『このあいだ東京でね』という作品は『新潮』の2008年の9月号に掲載されたのだが(水村美苗さんの『日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で』の最初の数章が刊行前に先行掲載された号だ)、僕は店頭に並んでいるのを発見してすぐに購入したのだけれどもいまだに読み終わることができていない。電車での移動中や映画が始まる前のちょっとした時間であったり、喫茶店で腰を落ち着けて読み続けているんだけれども、ほんとにちびちびとしか読み進めることしかできないので、いつのまにかずっと鞄のなかに入っている。いまでは僕の『新潮』9月号は表紙が折れ、頁の端っこの方が曲がり始めすごいぼろぼろになってしまっている。その後も、今回この本にも収容されているのだが、『群像』であるとか『早稲田文学』などでも短編を次々と発表していたのも知っていたのだが、まったくその発表のスピードについていくことができなかったのである。そういうひとりの作家の小説を追うということを滅多にするわけではないのだが、それでも書くスピードに読むスピードが追いつかないというのは本当に初めての体験だ。
 この小説家の特異性のようなものは保坂和志さんの『小説の自由』であったり、『小説、世界の奏でる音楽』などで触れているのでそちらを読んでいただいた方がわかりやすいと思うんだけれども、それでも自分がわからないなりに書くとここでは自分の知る小説のストーリーというものから、かけはなれたところにあると言える。それは、つまるところ、どの地点から(あるいは誰の視点からと言ってもいいかもしれないが)書かれているのかがわからないからだ。乱暴に言ってしまえば、主人公が誰なのかがわからない。そして、主人公が明記されている作品であってもそれが何者なのかわからない。たとえば「けい子がその短くも幸福なOL時代を振り返ってみるとき」と始めるこの本の最初に入っている『さよなら、またいつか』という作品はもう次の頁になると彼女が勤務している会社の近くの銀座の描写が始まってしまう。それも何頁にも渡ってだ。「けい子」の説明はこの小説の中でおそらく1000字くらいしかない。しかし、銀座の並木通りなど都市の描写はその何倍もの分量が費やせられている。そこで一気に読み進めるスピードが落ちるんだけれども、僕が大変興味深く読んでいるのは後者の方である。
 たぶん僕がこの小説家に惹かれるのは、作品が非常に映画的だからなのである。それは人物の心理などよりもまず風景の描写にこそ力が入れられることによってという意味で。たとえば阿部和重さんの小説が『ファイト・クラブ』に似ているというのとは違う意味で映画的なのであって、非常に恣意的な作品名をあげて申し訳ないんだけれども、川島雄三の『青べか物語』に似ているという意味で映画的なのである。『青べか物語』は森繁久彌が浦安をぶらぶら歩き回っている映画なんだけれども、そこに浦安は海が近くて……海苔の生産が盛んで……なんてナレーションが入る。つまり、画面に映っている人物と関係ないところでナレーションという別の言葉が入り込んでくる。僕が青木淳悟さんの小説を読んでいて真っ先に思い出したのはそのナレーションなのだ。『青べか物語』のたとえがわかりにくいとすれば、よくNHKなどで高度成長時代の日本はというようなドキュメンタリーを放映しているけれども、あれを思い浮かべてもらっても構わない。いそいそと通りを歩くサラリーマンの姿を映したところにアナウンサーかなにかのナレーションが入るじゃないですか。そのサラリーマンが何を考えているのかと一切関係なく、この当時の東京は……なんて感じに。この小説は、タイトルの通り東京を舞台にしている。主人公は東京という都市そのものなんじゃないかと言ってもいいかもしれない。そのときに、そうした視線で小説が書かれているというのが大変興味深いのだ。
 映画は時間の経過と共に目の前の風景が通り過ぎていってしまう。それも時間の芸術だといわれる由縁かもしれない。でも、この小説はその風景がずっと続いていく。何度も読み直すことができる。あっという間に夢中で読み終わってしまったという褒め言葉があると思うんだけれども、それと同じような意味として、いつまでたっても読み終わらないという褒め言葉を僕はこの本に捧げたいのである。