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March 6, 2009

『チェンジリング』クリント・イーストウッド
結城秀勇

[ book , cinema ]

 トロリーバスが市民の足として行き来し、もはや一部の者の所有物に過ぎないとは言えない高い車高の自家用車がゆっくりと道を行き交う。その街は汚職に支配されている。新聞はそうした警察や政治家の見解を翌日の誌面に忠実に反映するが、その一方、放送が開始されてまだ10年と経たないラジオもまたマイノリティのためのメディアとして力を蓄えつつある。女性が仕事につくことはもはや当然のことと見なされ、そうした経済条件さえ備えていれば母子家庭も父がいないということだけで社会的に白眼視されることはない(そのことで子供がからかわれることはあっても)。電話が各家庭に普及し、そのため電話交換台は繁忙を極める。どのくらい忙しいかと言えば、慌てふためいて入電の対応に終われる交換手たちの間を彼女らの上司がローラースケートでバックアップに当たるほどである。彼女たちのスカート丈は臑を半分以上見せることはないし、まして胸元が垣間見えることなど皆無だ(まだいまは)。屋外に出ればぴったりとしたクロッシュ・ハットがショートカットを覆う。もはや化粧をすることが悪徳と考えられるようなことはなくて、特に男を誘惑しようという気のないシングルマザーの青白い肌にも赤い口紅が映える。
 こうした20年代末の風俗的ディテイルが、アンジェリーナ・ジョリーにかつて見たことのない特徴を与える。これまで彼女の支配的なイメージであった肉感は極限までそぎ落とされ、わずかに1935年のシーンで胸元の開いた衣装をまとっていたとしても、本来スレンダーと形容される彼女の肢体は寒々とした骨張ったものに変わる。彼女の「肉感」の象徴たる厚い唇も、赤い赤い口紅によってその他の部分の青白さを強調するばかりだ。一方で、彼女が演じたどんな役柄よりもここでの彼女は女性的な役柄を演じている。彼女の演じるコリンズ婦人を支える唯一の観念こそ母親であることだからだ。たとえ父親がいなくとも、そして息子さえいなくとも、母親であること。
「A True Story」と銘打たれる映画作品のすべてが孕む倒錯によって、私たちはこの映画を、各種メディアや交通機関といった現在の風俗の基盤が確立した1920年代という時代の終わりを舞台にした映画というよりも、翌年に迫った大恐慌の直前を舞台にした映画として見てしまう。あるいは第一次世界大戦(もちろん当時はただの「世界大戦」だったわけだが)の10年後を舞台にした作品としてよりも、恐るべき第二次世界大戦の約10年前が舞台であるものとして見てしまう。「戦いを始めるな。ケリをつけろ」という極めてイーストウッド的な命題がコリンズ婦人の口を借りて発せられるが、彼女の置かれた立場とは既に始まった戦いに終止符を打つものではなく、まだ始まらない戦いの「前に」なぜか彼女だけが放り込まれるようなものだ。こうした倒錯をさらに推し進めれば、コリンズ婦人の真の先駆性は20年代的な人権や婦人権の擁護の象徴としてあるのではなく、ジョージ・キューカー『ガス燈』のイングリッド・バーグマンに15年間先行していたことにある。まず記憶や思い出や直観としての息子が抹殺され、ついで物的証拠を伴った息子が消されていく。まるでシャルル・ボワイエの手の中で握りつぶされた手紙のように。
 そして『チェンジリング』においては、握りつぶされた過去が奪還されることは決してない。ジョセフ・コットンはここにはいない。ジョン・マルコヴィッチがその代役を果たしているかのように一見見えるとしても、彼らの語る「あなたはあなたの人生を歩みなさい。息子もそれを望んでいる」というメッセ−ジは、警察の見解である「これがあなたの息子だ。他に息子はいない」という言説と同じ欺瞞を孕んでいる。そうしてアンジェリーナ・ジョリーはイーストウッド的命題に真っ向から反対して、未だ始まらぬいずれ来るべき戦いをたったひとりで戦い続けるヒロインとなる。いくつかの近作の中にも登場していた、終わらぬ戦いをサヴァイヴする人間像はアンジェリーナ・ジョリーの肉体を借りて類い希なる強度をいま獲得した。