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April 22, 2009

『パンドラの匣』冨永昌敬
結城秀勇

[ book , cinema ]

 なにかとんでもないことが起こっているかもしれないと気付いたのは映画が始まり舞台がメインの「健康道場」へと移りタイトルが映るまでの少々長めの時間が経った後でだったから、いささか遅きに失していたのかもしれない。
 それまではと言えば、人や物、そして音がフレームの中に見事に収まっていることに見とれていた。『シャーリーの好色人生と転落人生』のあの貫禄を見れば、当然至極のこととも思えるこの事実になぜ気を取られたかと言えば、上映前に告げられた「この映画は全編アフレコです」という情報のせいだろうか。そこに今回の「実験」が有るのだと思った期待を肩すかすように、異なる時間を持つはずの映像と音は何食わぬ顔をしてそこに同居していた。撮影、録音、編集と、異なる位相の作業の結果出来たはずのものが目前で展開していくが、どのような操作の果てにそれが生まれたのか、なんてことよりも、ただ目の前のものに見入ってしまった。物語の上での1945年から1946年、そうした時代が異化効果として現在にいる私たちを刺激するのではなく、その時間が私たちを飲み込み、安心してそこに身を委ねられる。染谷将太、川上未映子、窪塚洋介、仲里依紗という4人の主要キャストを始めすべての人々がそこにいるのが当然のことに思える。その顔も、立ち姿も、声も、ごろんとこの時間の中におかれている。それだけで十分で、それがつまりなにかとんでもないことだった。
 戦時中は自らの身体を蝕む病をひた隠しにし、積極的に死を迎えいれようとしていた少年が、戦争の終結とともに「新しい男として」病を治癒させるために結核の治療機関である健康道場に入る。とはいうものの、太宰自身死と隣り合わせという過酷な状況下にある人々を軽やかに描く試みとして書いたらしい原作同様、『パンドラの匣』における中心的な問題とはつまるところ色恋沙汰なのであって、死のことはほとんどの場合(観客からも)忘れられている。
 ひとつの規則として、この道場にいるものは「やっとるか」と聞かれれば「やっとるよ」と答え、「がんばれよ」と告げられれば「よしきた」と応じる。この万人が行う挨拶、そこにこそ恋愛の機微はある。この心地よいリズムが観客を運んでいくが、時折魅惑的な視線や手つきによってメカニカルなリズムが狂うとき、それが「いじわる」であったり「いやらしい」ことになってしまう。この些細な規則の侵犯にドキッとする。「やっとるか」と「やっとるよ」の間が、「がんばれよ」と「よしきた」の間が、ほんの少し開くこと、あるいは予期せぬ答えが返ってくることで、挨拶は挨拶でなくなり、私たちはそこに恋愛の深みを垣間見る。
 だがそこに深みなど本当にあるのだろうか、ということでもある。染谷将太の視点で紡がれる物語の中で、私たちは川上未映子の本当の気持ちも、窪塚洋介の本当の気持ちも、仲里依紗の本当の気持ちも、知ることはない。それもそのはず、挨拶が挨拶でなくなるほんの少しの引き延ばされた間、そこに横たわるのはこれまで聞いたことのない種類の無音状態なのだ。それがここにアフレコという事実があったということを思い出させる。映画を見ている間はそれに気付かないほど巧みに作り上げられた呼応の連動、そこには音としての問いに対して音としての答えが返ってくるという外的な必然性は本当はない。だからいっそ、挨拶が挨拶でなくなるその瞬間に、コミュニケーションが不可能な深淵を覗くのだなどと言い換えてみたっていいだろう。「やっとるよ」あるいは「よしきた」という返ってこないかもしれない答えを待つ時間が身体的に刻み込まれていく。
 それはなにもネガティヴなことでは決してなくて、仮にここで言うようにもはや挨拶ではなくなった「やっとるか」と「やっとるよ」が極めて危うい関係性を露呈するとするならば、そもそも本来の挨拶としてのそれらもまた根本的に危ういものなのであると言える。でも彼らはそうした規則を当たり前に実行している。そしてその当たり前の規則が実行出来なくなることがあるのを、時折やってくる死が思い出させ、それでも残った人間はやはり当たり前のことを当たり前に実行する生活に戻っていく。 本質的には決して繋がることのない問いと答え、画と音、ものともの、それを何でもない当たり前のこととして繋ぎ合わせるために、冨永は小さなループを限りなく反復させていく。繰り返すがこれは映画の背後にある「実験」ではない。その小さなループの反復こそが『パンドラの匣』そのものだ。その小さなループがたわみ、ねじれ、揺らぐことで生まれる主要な4人の登場人物の心模様をくっきりと映し出すために必要なバックグラウンド、主要なリズムだ。結核の快癒という目的にどれほど関係性を持つか判らない体操を日々繰り返す人々の姿がユーモアに満ちあふれながらも決して馬鹿馬鹿しくはないのは、この映画全体の運動がそれに似ていて、多分なにか当たり前のものを当たり前のものとして望む連祷のようなものだからだろう。
 その結果、ショット、シーン、シークエンス、どのような単位でこの映画をいま自分が捉えているのかが見ていてわからなくなった。なにかが終わってもなにかが始まることはわかりきっていて、それは本当は当然のことではないのに、当然のことだと思っても良いと許されているような感じで、でもやはり終わりはやってくるので、それは素晴らしい別れの言葉で締めくくられるはずで、でもその時が遂にやってくる瞬間までは、「オルレアンの少女」を歌う川上未映子と看護婦たちの美しき女性の世界に、それを聞く染谷将太と窪塚洋介との間で固く交わされる握手に、そしてそれらの瞬間を生み出す何気ない時間に、結局は魅了されていただけだった。
 
 『シャーリーの好色人生と転落人生』を見た後で、私は冨永監督に「いつも女性が本当に素晴らしいですね」と伝えたが、やはりそれは片手落ちというもので、『パンドラの匣』を見た後で「男性も女性も本当に素晴らしい」と伝えた。本当に俳優たちは素晴らしく、彼らがそこにいるだけで十分だという気がする。そしてそれは、これは監督本人には伝えなかったことだが、「もう男性も女性もいなくなって、その間の隔たりだけがそこにあって、それが本当に素晴らしい」と伝えることと同じだったのではないかと思っている。


『パンドラの匣』今秋、テアトル新宿他にて全国順次公開

『シャーリーの好色人生と転落人生』いよいよ4/24(金)まで! 連日20:30〜 池袋シネマ・ロサにて 2本立てレイトショー!