« previous | メイン | next »

April 28, 2009

『ワンダ』バーバラ・ローデン
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 ズブズブと沈み込んだ『俺たちに明日はない』、コメディタッチもある『地獄の逃避行』、いやそれではこの作品について何も語っていないことと同じだろう。東京日仏会館で開催された〈カンヌ映画祭「監督週間」の40年を振り返って〉の最終上映作品、マルグリッド・デュラスやジャック・ドワイヨンが絶賛した、エリア・カザンの前妻であるバーバラ・ローデン監督兼主演作『ワンダ』について、無理矢理ひとことで感想を述べるとすれば、豊かな作品であると、そう述べておきたい。しかし問題なのは、その「豊かさ」というものが、たとえば無数の要素を見出すことができるというような「数」の上での豊かさでも、たとえば個々の要素が充実した瞬間を生み出しているというような「質」の上での豊かさでもなく、無数の要素が延々と挫折とすれ違いを繰り返し続けることで、その集積がただ徒労それ自体としてあるような、そんな豊かさ、むしろ豊かである呼ぶことさえそら恐ろしいような、そのようなものであることなのだった。
 砂の山と工作用車両しか目に入らない、風景と呼ぶにはあまりにも貧しいワンダの住まう風景を映し出したファーストショットから、このフィルムが言わば「うち捨てられた物/者ども」についての映画であることは明らかで、主人公のワンダがその最初の十数分の中で、夫も、子も、職も、そして彼女の持つわずかばかりの金銭も、ありとあらゆるものを失うプロセスの、その淡白さ、あまりの能動性のなさに、驚きを通り越してうなだれてしまうほかない。その後彼女を偶然の出会いにおいて、なし崩し的に拾い上げてしまうマイケル・ヒギンスとの逃避行が何を彼女に与えるかと言えば、やはりそれは何も与えず何をも生み出さない。
 このフィルムには様々なジャンル映画の要素が見出されるような瞬間がそこらかしこにあると言える。しかしそれらはまったく有機的な組成を行わない。コメディに、ラヴロマンスに、家族映画に、あるいは犯罪映画に、うつらうつらと視線を傾けつつ、しかしそれらを次々と挫折してゆくプロセスばかりが、ここに映し出されていると言えばいいだろうか。主人公ワンダの行動に笑いを誘われてしまう箇所がこのフィルムには幾度もあるのだが、しかしその笑いも次の瞬間にはどこか後ろめたいものにさえ感じられてしまう。なぜならおそらくその笑いさえもが挫折させられてしまうほどに、ワンダという人物がどこまでも能動性を奪われているからだ。さらにはそれらの挫折さえも、決してひとつの「像」を作り出すことすらない。ワンダはひとつひとつの出来事にたしかに一喜一憂してみせるし、映画の終り近くには一種の絶望めいたものさえも見出しかけはする、だがしかし、彼女は結局着地点を見出すことができない。このフィルムの豊かさとは、言うなれば出口の見つかることのない時間の蓄積、それ自体のことであると言えるかもしれず、それは単なる幸福を私たちに享楽的に与えてくれるものなどではありえず、もはや「畏れ」とでもいうべき感慨を抱かずには見つめることのできないものではないだろうか。
 彷徨の果て、逃避行を続けた男の死の先に、辿りついた場末のバーの乾いた笑いの行き交う片隅で、無表情で食事をつまみビールを口にするワンダの姿に向けられた「映画監督バーバラ・ローデン」の視線、すなわち「監督バーバラ・ローデン」が「女優バーバラ・ローデン」に向けた視線の虚ろさに対し、たとえばここで、「『ワンダ』というフィルムが映し出すのは、自分自身の姿を見つめる自分自身の視線、という不可能性そのものの現前なのである」、などともっともらしく論じてみせることで、ひとときの決着をつけ、安心してしまうこともできるだろう。しかしただそれだけのことを以て、この一瞬の「自画像」に抱かせられてしまった「畏れ」を克服することなど、とりあえず今の私にはできそうもない。