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June 10, 2009

『イエローキッド』真利子哲也
高木佑介

[ cinema ]

 その男はいったい誰で、そこはいったいどこなのか。しばし自分の目を信じることができない。などと言ってみるといささか大袈裟かもしれないが、だがしかし、現についさっきまでトイレでボコボコと殴られていたはずのその男の弱気な表情はどこかへと消え失せ、横浜だと思っていた風景は、まったく見知らぬ場所であるかのようにスクリーンに広がりだす。さっきまでそこにあったものが、何かまったく違うものに見えてくる。そんな瞬間が『イエローキッド』を見ているといつしか訪れて、そのことに、とにもかくにも狼狽させられる。いったい何が起こったのだと、とにもかくにも狼狽させられる。ブレーメンストリートと思しき場所をつかつかと歩いていく主人公の単純な動作を長回しワンショットで追っていたキャメラが、不意にその後退移動を止めて、走り去っていく男の姿を見送ってからというもの、この世界の時間や速度のそれとはまるで異なる単位を獲得したのではないかと見紛うばかりに『イエローキッド』は走りだす。先ほどまで目の前にいた/在ったはずの人を街を時間を映画を一挙に変調させていくための震動とは、実は、たったひとつのショットにこめることもできるのだと『イエローキッド』は証明してみせる(撮影監督は青木穣という方だそうだ)。もちろん、ボクシングを習う主人公の男が次第しだいに大好きなアメコミの登場人物“イエローキッド”に自身の姿をアイデンティファイしていくという同一化のプロセスがこの映画にはたしかにあるのだから、彼がいつの間にか別人のような表情になっていることは、至極当然のことなのかもしれない。そもそも、映画には1コマ1コマに刻まれた微妙な差異がとめどなく流れ去っていて、そこには何らかの変化が常にあるのだ。でも、誰もそれが当然のことだなんてあらためて考えもしないほどに当然だと思われていることを、人にはたと思い返させるのは難しい。そこに「ある」ものを、たしかにそこに「ある」あるいは、たしかにそこに「あったはずだ」と人に感じさせるのは難しい。映画には1秒間に24個の真実があって、スクリーンに映っているいまこの瞬間にもドラマがあるのだと、人を感動させるのは難しい。だから、そういうことができる/撮れるのは、やはりすごいことなのだ。
 
 以前からすでにその名前を知っている人も多い真利子哲也の『イエローキッド』は、今回、2夜にわたって催された不夜城シネマフェスティバルで上映された。東京藝大修了作品として、6月末にはユーロスペースで上映される。



GEIDAI#3 ― 東京藝術大学大学院映像研究科
映画専攻第三期生修了制作展@ユーロスペース


『ラッシュライフ』6月13日より、新宿バルト9にてロードショー