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July 17, 2009

『ノウイング』アレックス・プロヤス
田中竜輔

[ cinema , cinema ]

 ニコラス・ケイジが世界を救うヒーローなのだ、と断言されてしまうとそれはどうにも何か別の作品のパロディ程度のものにしか思えなくなってしまうのだけど、しかしすべては彼自身の勘違いで、彼は勝手に自分自身をヒーローだと信じ込み、勝手に窮地に飛び込んで勝手にひとりで混乱しているだけだ、と言われればそれは途端に別の意味で真実味を増す。リー・タマホリの『ネクスト-NEXT-』はそれが夢オチというかたちで提示していたが、『ノウイング』はストレートにそれを物語を総動員して語っているように見えた。
 映画の端緒から散見できる、ほとんど演出上無意味な手持ちキャメラ的な画面のブレが、この映画最初の大事故のシーンのニコラス・ケイジが突然発現するヒロイズムの胡散臭さを倍化させるためのものだということが表明されるとほとんど同時に、『ノウイング』はそこに抱えていたはずの謎のほとんどをあっさりと暴露し始める。MITで宇宙理論の教授を務めているという、ケイジ演じる主人公の素性はほとんど何の意味もなく、彼がその謎を解決する為に用いるのはインターネット検索エンジンとカーナビのGPSシステムだけだ。誰にでも推測のついてしまうような凡庸な材料だけをもとに、ケイジは自分自身こそがこの謎を解くべき、選ばれし者なのだと「勘違い」し、あらゆるトラブルに勝手に身を突っ込んでいく。正直に言ってこの映画がもし他の俳優によって演じられていて、そんな様子をたとえよりスタイリッシュに見せられたとしても「アホか!」のひとことで終わらせたくもなったと思うのだけど、しかしニコラス・ケイジの顔があるとなると話は別で、その力ない顔がどうにも彼自身の強い確信を表明しているようにも思えてくるのだから困ってしまう。
 学生たちに向けて、宇宙における偶然と運命について論じたときの「全ては無意味だと思う」という弱弱しい呟きが、しかし逆説的にニコラス・ケイジという俳優の立ち位置を表明している。何をどうやっても、胡散臭く、後ろ向きに見えてしまう、という確固たるアイデンティティがそこにある。それだけを理由にして、なんとなく結果はわかっていながらもケイジの映画は見たくなるのだが、しかしなぜなのか・・・・・・。そう言えばヘルツォークがフェラーラの『バッド・ルーテナント』をケイジ主演でリメイクするという話はどうなっているんだろう。

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