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April 1, 2010

『シャーロック・ホームズ』ガイ・リッチー
結城秀勇

[ cinema , cinema ]


 魔術と科学の対立という構図に持ち込んだ時点で、原作に忠実な映画化はあり得ない。もともとガイ・リッチーがそんなものを目指していないのは、同性愛的な匂いすら感じさせるホームズとワトソンの関係、頭脳というより肉体的な情報処理能力を示すホームズ、という点からも明らかであるが、結果としてそれがなにに似てくるかと言えば『ダヴィンチ・コード』のような過剰な情報の横溢によってのみ展開する類のアクション映画だ。
 ホームズの推理、というより情報処理能力を示すはじめの場面とは、待ち受ける敵をいかにして倒すかをシミュレートする場面である。一連の運動を分解し、言語によって分析する。左足が悪いから左側から最初の一撃を決め、鼓膜を撃ち、トドメに足を折って云々、というひとつのアクションとそれに付随するキャプションじみたナレーションが、彼の来るべき運動を先取りする。言葉によって裏打ちされたアクションは、何の間違いもなく現実として反復される。相手に与えた損傷は、顎やアバラが何本骨折したかという計数可能な事実を示す言葉によって表現されるだろう。そこにあるのはホームズによる相手の観察というよりも彼自身の予定された行動の説明に過ぎない。情報は開示され、その後でその通りに出来事は起こる。
 だから、基本的にはアナロジーの体系である魔術を、計数可能なものとして科学的に分解するというストーリーのプロットは冒頭で既にその縮小版が提示されていて、その引き延ばしに過ぎない全体にはサスペンスもミステリーもない。アナログ対デジタルでデジタルが勝つ、という決まり切った退屈なこの構図を見せるためにリッチーが選択したのは情報開示の速度をひたすら上げるという方法だったのだろうが、それが極めて退屈に思えて仕方がない。フリーメーソン的な陰謀や暗号ものを扱った作品が似たような傾向を持った出来になってしまうのには、なにか理由があるのだろうか。


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