« previous | メイン | next »

July 7, 2010

『あの夏の子供たち』ミア・ハンセン=ラブ
松井宏

[ cinema , cinema ]

 処女長編『すべてが許される』に引き続いて、自殺する男を仮の中心に据えたミア・ハンセン=ラブの長編第2作目は、やはり前作と同じく「どのように不幸を描くか」ではなく「どのように幸福を描くか」をまずもって問題にする作品だった。弱冠30歳のこの女性監督は、たぶん不幸を描くための前段として幸福を描いておこうなんて、そんなチャチなことは考えていない。幸福は否定されない。幸福はこの作品のルールそのものだ。だから死はルールを否定するわけではない。死はルールの裏をとり、ルールを悪用するだけだ。逆に言えば、幸福というルールこそが必然的に死の可能性を含んでいる。
 説話の進行とは別の、ほとんど無償に近い時間。と、たとえば幸福をそう言えるかもしれない。ここ最近の劇場公開作では、この作品と『ローラーガールズ・ダイアリー』(ドリュー・バリモア監督)が、つまりふたりの女性監督がそれを見せようと意思していた事実は、たいして重要ではないかもしれないけれど、とにもかくにも彼女たちふたりが提示するのは、それがまず何よりも俳優たちとの関係のなかにしか存在しえない事実。じゃれあったり軽口たたきながらいろんな方法でコミュニケーションを取り合う複数の人間たちがいる。ときには明らかなインプロヴィゼーションさえある。そんな彼らから、ある時間を取り出すこと。『あの夏の子供たち』は、長大なワンシーン・ワンショットに拠らずとも、的確なショットと意図的に浮き足立ったモンタージュとで、そうした時間を見つけ出してみせる。
 あるいは、こう言えるかもしれない。「登場人物たちは絶対に幸福にならなければいけない」。それこそがミア・ハンセン=ラブの映画の説話におけるルールなのだと。だからこそ自殺する男の3人娘の長女は、父が死んだ後、やはり新たな恋人——というかまるで初めての恋みたいだ——に出会う。しかも、死が幸福というルールにあらかじめ潜在しているように、この恋には翳りが潜在する。つまり、その男はもしかしたら死んだ父の腹違いの息子かもしれない、つまり彼と彼女は兄妹かもしれない、という暗い可能性を、ハンセン=ラブは観客だけにそっと示してみせる。こうして彼と彼女のシーンたちはまるでヒッチコック的な意味でのサスペンスのごとく機能しながら、説話にエモーショナルな厚みをもたらす。それらのシーンこそ、この作品の白眉だろう。
 かつて父が生きていた頃訪れたチャペルを、彼が死んだ後に再び訪れる母、長女、そして小さな妹ふたり。一度目の訪問で、「ハシゴに登っていいか」と尋ねるひとりの妹に——ほとんどインプロヴィゼーションのように発せられた台詞だった——父は「だめ」と答えた。二度目の訪問で、家族4人をとらえるショットのなか、その妹はふと中空を見つめている。次のショットでは、件のハシゴのてっぺんが、水色の空と一緒に映しだされる。台詞は必要ない。ほどんど意味なんてないそのショットがそこに生起する瞬間、かつて父が生きていていまは亡くなっているという実感が、観客にどっと訪れる。死が遍在しているように、死者も偏在している。幸福というルールゆえ、それは当然なのだ。と同時に、このショットは真に息吹に満ちている。すなわち、子役のインプロヴィゼーションへの応答のごとく、このショットはまさに現場でのインプロヴィゼーションでふと撮られてしまったような、そんな印象を与えるのだ。その意味でもこの作品は、やっぱり現在進行形の生に満ち満ちている。
 たしかに未来なんて予測できないし、なるようになるだけで、ケセラセラだけれども、あくまでもそれは幸福というルールを敷いてこそ、つまり幸福を追求するからこそ口にできる肯定だ。これは、いま、なんだかとっても重要なことに思えた。

恵比寿ガーデンシネマにて上映中