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September 21, 2010

『ZERO NOIR』伊藤丈紘
高木佑介

[ cinema , cinema ]

 映画の可能性が不意に大きく刷新されてしまった瞬間、あるいはまさにいまそれが刷新されようとしている瞬間に立ち会うとはこういうことなのだろうか。こう言うと大袈裟に聞こえるかもしれないが、この映画にはとにかく打ちのめされた。何から書けばいいかわからないけれど、とりあえず何か書き始めることにしたい。

 冒頭、モノクロの戦争記録映像がモンタージュされたあと、アイリスの効いた画面からこの映画は始まる。クリスマス・ツリーのある部屋。いかにも幸せそうな、とある家庭の光景がそこに「在る」ことを、ほんの数ショットだけで私たちは確信することができる。つまり、一瞬でこの映画に視線を奪われてしまうのだ。そして私たちがそこから目にするのは、クリスマスから始まる男女たちの物語である。
 たいして下調べをせずに見ても、この映画の原作が『人間失格』(太宰治)ということはタイトル画面で誰にでもわかるだろう。だが、それ以上にまず私たちの気を引くのは、細かく章立てされているこの物語の、その各章タイトルが、映画史的な固有名をもじったものになっているという点だ。第一章「They Live by Night」(『夜の人々』49)。第二章「In A Lonely Place」(『孤独な場所で』50)。「We Can’t Go Home Again」(『わたしたちは二度と故郷に戻れない』73-76)……。もちろん、これらの作品名を見て、ニコラス・レイという名前を思い出さない人はいない。そして、私たちは彼自身とその作品が、映画の絶対的な過酷さを体現していたことをすでに知っている。だから、この『ZERO NOIR』はある明確なパースペクティヴに貫かれていると言えるだろう。それは、「いま・ここ」で映画を撮ることの過酷さだ。登場する男女たちが、次第しだいに過酷な時間を生きざるを得なくなるように、この物語がめぐるのは、映画と私たちの生そのものの過酷さだ。単なる映画史的な目配せでもゲームでもない。映画史を引き受けることが、この上なく過酷であることを知りながら、それでも背負っていくことを選ぶ過酷さだ。
 私たちは、この一本の映画を見ると同時に、さまざまな固有名を思い出す。いや、思い出さざるを得なくなる。アルノー・デプレシャン、スタンリー・クレイマー、ジェームズ・グレイ、J=L・ゴダール、ニコラス・レイ……。それは何も、タイトル名や彼らの名前が実際に言及され、程よく引用・折衷されているから思い出されるわけではない。すべては、頭抜けたその演出によって昇華されており、あくまでも映画的な瞬間を通じて感じることができるのだ。たとえば、ヒロインのひとりが女社長として働くオフィスのシーン。夜の街がガラス越しに展望され、女性たちが窓辺にたたずむその光景を観て、不意にエドワード・ヤンの名前が頭を過っていく。どのタイトルかも忘れているのにも関わらず、具体性もないのだが、間違いなくこれはエドワード・ヤンだと強く思わせるような何かがここに映っているのだ。
 東京芸大の中期作品であるというこの映画に寄せて、黒沢清は学生の域を越えた「堂々たる世界映画」という表現をしている。もちろん、それは美術や照明の造形や、俳優たちの演技を引き出す監督の演出力が学生離れしているということを指してもいるのだけれど、それと同時に、この作品からひしひしと感じられる、映画史の先端たろうとするその志の高さに対して充てられた言葉でもあるだろう。私はそう解釈している。だから、この映画は、映画史の先端たろうとする若きシネアスト(26歳!)の意思表明でもあるし、上記のような作家たちによって体現されてきた映画の深淵部の思考の、そのまたさらなる思考=批評となっている作品でもある。ニコラス・レイやゴダールといった、彼らの存在自体がもはや大文字の歴史でもある映画史的パースペクティヴを物語の大きな枠に据え、演出によって自身の可能性と映画そのものを思考し実践していくこと。だから、この映画はとても構造的に創造されていると言えるし、まさにいまここで、現在進行形のかたちで生起している問題をめぐる、重層した思考の集積でもあるだろう。
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 ここまで書いてみたことを読み直してみると、何やら精神論に傾倒した、映画を見たときの印象話の域を出ていない気がする。でも、とにかくこの映画には驚かされた。特に、あの俳優たちの圧倒的な存在感はいったい何なのだろう。それに、座席に座っているはずの私たちの安定した日常までが脅かされているかのような、ほとんど戦争のようなあの会話のやり取りはいったい何だ。よくわからない。よくわからないけれど、すごいことが起こっているのはよくわかる。そして何より、私たちはもはや無垢ではなく、映画を快楽的に体験できる時代はもちろんとうの昔に過ぎ去ったのだけれど、この作品の誕生に立ち会えたことが素直に嬉しい。だが同時に、この映画を肯定すること、それは映画を思考し実践することの困難さと、そして私たち自身の生を他者と共に生きることの困難さとに、100%真正面から向き合うことと同義だ。私たちにそう強く確信させる力がこの映画には備わっている。それだけは絶対に間違いない。


東京藝術大学大学院映像研究科OPEN THEATER(9月16日~9月20日)にて上映