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January 27, 2011

『アブラクサスの祭』加藤直輝
松井宏

[ cinema ]

 東京藝大大学院卒の加藤直輝監督による「商業映画」第1作目となる今作。「商業デビュー作として今作は云々かんぬん」とか「以前の加藤監督作品と比べて云々かんぬん」とか「監督の作家性が今作では云々かんぬん」などと言った話を抜きにして、『アブラクサスの祭』はごく素直に心動かされる作品だ。
 まず成功の理由として、物語の構造のシンプルさがあると思う。同名の原作小説でもそうらしいのだが、ラストはライブである。もともバンドをやっていて、現在は鬱を抱えた坊さんである浄念(スネオヘアー。その低く厚みのある声が映画全体を落ち着かせている)のライブ。本当にライブをやれるのかやれないのか、はたまたどんなライブになるのか、といった筋立ては「舞台もの」や「音楽もの」の王道として揺るがない。たしかにその筋立ては決して前面に強調されるわけではない(バンド仲間との友情と確執、あるいは周囲の不理解から理解へ、などのジャンル的要素がこの作品の要ではない)。でも確実に、この映画を支えている。
 もちろん、じゃあそれだけで良い作品ができるのか、と言えば、そんなはずはない。『アブラクサスの祭』には、品性の良さとでも言えばいいのか、そんなものがたしかに存在するのだ。
 
 たとえばそれは、人物の正面と背中に関連している。浄念さんの「喋る」というアクションを、あるときは大胆にも正面からとらえたかと思えば、まったく顔を見せずに、ただただ背中からとらえてみせたりする。この正面と背中の使い分け、いや正しくは背中の使い方というか、言葉のアクションと背中との組み合わせが、とても品のあるエモーションを生み出してくれる(たとえば、亡くなった父について語る浄念の、引きでとらえられた背中。あそこでいったい彼はどんな表情をしていたのだろう?)。また、友人が死んだ後に訪れる、浄念の背中と、鏡に映るその顔を同時にとらえた、あのショットの素晴らしさ。「背中で語る」なんて言うのは簡単だけど、実際にそれを成功させる作品は、それほどないと思う。
 アクションは、直接に見せられないことで、より増幅した感情をこちらに届ける。あるいは実のところ、この作品にはアクションが不在なのだろうか。というのも、この作品に充満するのはアクションというより、むしろリアクションだからだ。
 
 ラストの、お寺でのライブシーンで、そのことはハッキリわかる。友人の死によって何かを確信した浄念が、ついにライブを行う。ところが、実際このシーンで重要なのはライブそのものではない。重要なのは、演奏するその姿を見つめる、彼の身近な人々のリアクションの方なのだ。ライブに反対していた村の婆さん、つねに浄念の良き理解者である、寺の先輩坊さん、その奥さん……。しかも、ライブを見つめる彼らのリアクションからは、「確執やら問題の解消」やら「ライブが実現したことの嬉しさ」やら、そんな明白な出来事が、奇妙にもまったく出てこない。極めつけは浄念の妻(ともさかりえ)である。陽も落ちて暗くなり、たいまつの光を顔に受けて旦那を見つめる彼女。その表情は、嬉しいでも悲しいでもなく、まるで「これを終えたらあなたはいってしまうのね」といった体の、何かしら最期の別れを苦さとともに受け入れているような、そんなものだ。
 実際のところ、彼のこのライブは、目的の達成やらカタルシスの役割を背負っていない。言うなればそのライブは、彼にとって(あるいは周囲にとって)自殺そのものなのだ。「〈自分〉というものがなくなる」。まさに〈自分〉を殺す行為、それがこのライブだ。妻は、おそらくそれを受け入れつつも、だがおそらく不安を拭えない。だからこそあの表情が生まれたと言えよう。そして私たちは、その不安を共有する。〈自分〉を殺すどころか、これをもって本当に浄念は死んでしまうのではなかろうか、と。
 ところが。フィックスでとらえつづけられた彼女の表情は、突如変化する。固くこわばった表情が突如崩れ、両目から涙が溢れはじめる。わたしは、その瞬間ものすごく感動した。浄念は死なないと確信した。おそらく、彼女もそう確信したはずだ。たとえ浄念にアクションが不在だとしても、彼は生きつづける。いや、そこには、リアクションがあるからこそアクションがあるのだ、とでもいう別の真実が立ち上がっていた。そう、別に〈わたし〉は空っぽでいいのである。
 ともさかりえの、あの表情の変化は、ハッキリひとつのことを教えてくれる。つまり、他者がいるからこそ〈わたし〉は生きていられるのだ、と。