« previous | メイン | next »

February 15, 2011

『SOMEWHERE』ソフィア・コッポラ
田中竜輔

[ cinema ]

 ほとんど風景と呼べるランドマークのない、サーキットのような道路をグルグルと抑揚なく走る一台の真っ黒なフェラーリ。運転しているのは無気力な映画スターのジョニー・マルコ(スティーヴン・ドーフ)。車に乗るか、酒を呑むか、適当な女とセックスするか、はたまたポールダンサーをデリバリーするか、一応映画の仕事は続けているようだけれども、記者会見では質問に満足な受け答えもできないほどの熱のなさ、ルーティンと惰性だけで成り立っている彼の生活に、前妻との間に生まれたひとり娘との共同生活が入り込むことで、彼の人生にはささやかな転機が訪れる……見事なくらい凡庸な「自分探しの物語」と、あまりに典型的な母=妻の不在に起因する「家族の物語」とを行き来する堂々巡りの二重奏。それが『SOMEWHERE』というフィルムの物語の中核にある。
 それを提示するまでのソフィア・コッポラの演出は悪くない。冒頭の黒いフェラーリの円環運動が、マルコがデリバリーしたポールダンサーのケツ振りに置き換えられ、そのケツ振りがマルコが美女の自動車をストーキングする際の山道をグルグルと迷走するフェラーリの軌道へと再び送り返され、そしてその軌道がクレオ(エル・ファニング)が練習するフィギュアスケートの回転演舞へとに繋ぎ合わされるまでの一連のプロセスには、その停滞を停滞として持続させつつ、それでいてある種のリズムを生むような視覚的な連鎖がはっきりと形作られている。しかし悲しいかな、結局このフィルムが「普通の映画」としての運動を織りなしていたのはここまでのことで、その先に続くふたりの疑似恋愛的な共同生活は、どうしようもなく「ソフィア・コッポラの映画」という感触に留まるだけのものに過ぎない。
 もしもソフィア・コッポラが本当に、凡庸さの、凡庸さによる、凡庸さのための映画を、つまりは「普通の映画」を目指すように、本気で自身の新境地を開拓すべくこのフィルムを最後まで撮っていたとすれば、それはまた別の結果を導きだしていたのかもしれない。しかしソフィアが結果として選んだのはやっぱり相変わらずの「ソフィアの映画」をつくることであり、『マリー・アントワネット』の「宮殿」という空間を隠れ蓑に開催された「私のセンス大展覧会」よりも見かけ上は遥かに慎ましくなったとはいえ、このフィルムのディテールが自身と父フランシスとのかつての生活の様子を土台としているという逸話も相俟って、その機能がひとりの少女に代替されているという事実はいっそう揺るがし難いものとして目に映る(この「自伝的」に見える要素を新境地と評すのは端的に誤解であり、これはむしろ縮小再生産として見られるべきだろう)。
 ソフィアのフィルモグラフィを通じて見られる欲望を端的に表現すれば、それは「私の部屋」ではありえない場所を「私の部屋」にしたいという欲望(願い)だろう。『ヴァージン・スーサイズ』の「幽霊たち=少女たち(≒ソフィア・コッポラ)」の世界に対する「引き蘢り」は、まさしくその不可能性に直面した彼女たちの美しき絶望そのものだった。「私(たち)」を受け入れてくれない世界、「私(たち)」に開かれていない世界に対する「抵抗」としての「引き蘢り」……それに挫折した彼女たちの結末は誰もが覚えているはずだ。それは不可能な欲望なのだと、ソフィアは最初から気づいていたはずだ。だがしかし『ロスト・イン・トランスレーション』から『SOMEWHERE』に至るプロセスにおいて、抵抗として生み出されたはずの「引き蘢り」の身振りは、いつの間にかソフィアにとって安全で自由な保護膜を生み出す前向きな姿勢へと転化してしまっている。そのことはこのフィルムにおける父娘の「引き蘢り」イタリア旅行でも全く同様なものだと言えよう。
 ソフィア・コッポラの最大の問題はおそらくここにある。映画作家としての彼女が本当に捨てるべきは黒のフェラーリなんかではなく、『ヴァージン・スーサイズ』の少女たちの、つまり「私の部屋」に対する幻想にほかならない。彼女がいま取り組むべきは、『ヴァージン・スーサイズ』の続編、否、まったくもって地獄的なリメイクを生み出すこと、救済も何もない徹底的な「私の部屋」の破滅を描くものに相応するフィルムを生み出すことなのではないか。それは、彼女がこれまでに築き上げた「作家」としての在り方を捨てること、すなわち「ガーリー」なるものを捨てることとは同一のことでは決してない(ドリュー・バリモアが『ローラーガールズ・ダイアリー』で証明したように、それは映画にとって本当に必要なものだ!)。世界が絶対的に「私の部屋」ではないという認識を、「私の部屋」に留まりつつ生きることが必要なのだ。この再生の物語には、たとえば『ヴァンダの部屋』に鳴り響くブルドーザーの轟音が、たとえば『お引越し』の風呂場のガラスを突き破る血塗れの拳の震えが、たとえば『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』の腐り続ける死体の腐臭が、足りない。『SOMEWHERE』には現在進行形の破壊を生きるという姿勢が、決定的に足りない。

2011年4月2日(土) 新宿ピカデリー他全国ロードショー