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April 11, 2011

『神々と男たち』グザヴィエ・ボーヴォワ
増田景子

[ cinema ]

 この映画を観て、遠藤周作の『沈黙』を思い出す。『沈黙』は鎖国をしていた江戸時代の長崎を舞台とした隠れキリシタンの日本人と宣教師たちの話である。ちなみにこの『神々と男たち』は、アフリカのアルジェリアの小さな村が舞台であり、イスラム教のアルジェリアの人とフランスから来たキリスト教の修道士たちの話であり、平和だった村がテロリストの攻撃によって戦場へと変貌してしまうのだ。こうして文字にしてみるとふたつの話の類似がなんとなくわかってもらえるだろう。
 最大の類似は神の沈黙ということだ。どんな危機に瀕していようと神に祈りを捧げる敬虔な信者たちに対しても、神は彼らに対して何をすることなく、何を言うこともない。たとえ生死の選択を迫られたとしても、神に導かれることもなく、彼らは聖典や聖歌で神の言葉を心に留めながら自分たちで選択していくしかないのだ。
 今回、私はたまたま『沈黙』を思い出したが、もしかしたらこのような神の沈黙を扱う話は意外にも各国に存在しているのかもしれない。
 
 そして、この『神々と男たち』をこのように宗教に関する映画と捉えることはいとも容易いことであり、それは誤認ではないが、ただ神をもひとつの対象と捉えると、この映画は対話の映画といえるのではないだろうか。
 暗く広くない礼拝堂で白い装束を着た修道士たちが二列に並び、厳粛にあげる礼拝は、神が目の前に物質的に現存するわけではないが、精神的に神と向き合い神に対して言葉を告げるので神との対話といえる。また、その後に歌われる讃美歌の数々も神に対して捧げられるものであり、礼拝と同じようにこれもまた神との対話である。彼らの歌声は壁に反響し、その狭い礼拝堂を音楽で満たし、天へとのぼっていくだろう。ただ、礼拝にしても、美しい讃美歌にしても、これらの対話において神はいつも沈黙である。それでも、修道士たちは庭いじりをしながら讃美歌を口ずさみ、遺体に遭遇すれば祈りを捧げ、神と対話し続ける。さらに、神はキリスト教における神にとどまらず、修道士はさらにイスラム教の聖典であるコーランを学び、木々などの自然とも静かに幹に手をあて向き合い、まさに神々との対話を試みる。
 対話といえば、毎晩のごとく行われる机を囲んでの修道士たちの会議も印象的である。ここでは文字通り、全員が顔を突き合わせて、わざわざ全員が各々の立場や考えをきちんと言葉にして全員の前で述べて話し合い、つまり対話を行う。修道士はテロリストとも対話を試み、コーランの言葉により拒まれた対話を成立させるのだ。
 修道士と神々の対話、修道士たちの対話、修道士とテロリストの対話と挙げたが、ほかにも修道士たちはあらゆる対象と各々の形式で対話をしている。

 そして、むかえる修道士たちがそろって食卓を囲い食事をとる晩餐のシーン。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた『最後の晩餐』を意識していることは明らかであろう。各々の思惟を持ち臨んだ晩餐であり、また結果的に彼らにとって最後の晩餐であった。しかし、注目すべきはここで流れている音楽である。それまで音楽といえば、彼らの歌う讃美歌しかなかったのだが、ここでは宗教音楽ではなく、チャイコフスキーの『白鳥の湖』が流れる。王子がオデット許しを乞い、そこに現れた悪魔と戦い勝利した後に流れる誰もが知る曲だ。原典では、そのあと、白鳥たちの呪いは解けずにふたりは湖に心中して来世で結ばれるとあるが、オデットの呪いが解けてハッピーエンドで終わるものもある。ふたりの間を引き裂こうとしていた悪魔を倒し、ひとつ大きな問題にケリをつけたその喜びとその後の顛末の不確定さこそ、この修道士たちの最後の晩餐であり、彼らの対話の結果であるといえるだろう。


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