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April 22, 2011

『ファンタスティックMr.FOX』ウェス・アンダーソン
高木佑介

[ cinema , cinema ]

 この作品が好評を博していることは雑誌の論評などですでに知っていたし、ロアルド・ダールの原作を映画化することがウェス・アンダーソンの念願の企画であったこと、そしてその意気込みに見合った力作であることもなんとなく耳にはしていた。とはいえ、特に大きな期待を抱くわけでもなく、いわば消極的な心構えで映画館に足を運んでしまったことをまず正直に書いておきたい。前作の『ダージリン急行』(07)がそれほど面白くなかったからだろうか。それも言い訳として挙げられる。しかし、よくよく思い返してみると、心のどこかに“ストップモーション・アニメーション”というものに対して若干の抵抗感があったのかもしれない。「なんだ、アニメか」みたいな。とにかく、ウェス・アンダーソンの待望の新作とはいえ、大して何の期待も抱かずにこの『ファンタスティックMr.FOX』を観てみたのだった。

 結果は?――号泣。あまりにも良い作品すぎて、これまでの自分の穿った見方と態度を深く反省させられてしまった。もちろん、実写の映画ではとても撮影不可能な、アニメーションならではの人物描写――というより、人形描写――やコミカルな表現もとても面白いのだが、それ以上に、ジョージ・クルーニーやメリル・ストリープら声優たちの「声」の良さに驚いてしまった。他の作品で何度も耳にしているはずなのに、ジョージ・クルーニーってこんなに良い「声」をしていたのか、と上映中に何度もはっとさせられてしまう。ウェス・アンダーソン作品の常連であるビル・マーレイやウィレム・デフォーでさえ、まるで初めて耳にした「声」であるかのように新鮮に聞こえてくるのである。驚くべきは、この作品に登場するキツネの夫婦(ジョージ・クルーニーとメリル・ストリープ)やアナグマ(ビル・マーレイ)やネズミ(ウィレム・デフォー)の人形の造形が、声優たちの顔にあからさまに似せて作られているわけでもないのに、彼らの「声」を発している声優=発話者の表情が、自然と思い浮かんできてしまうことだ。良い映画を観たあと、長い時間が経ってもそのカットや描写を鮮明に覚えていることが多々あるように、ある「声」の響きがいつまでも耳のあたりに残響として残り続け、そこから再び映像が喚起されていくかのような、親和力に富んだ「声」の肌理がこの『ファンタスティックMr.FOX』には豊かに溢れている。
 調べてみると、ウェス・アンダーソンはこの作品を作るにあたって、まず声優たちのセリフ=「声」を実際のロケーションで録音してから造形つくりに入ったそうだ。もしかすると、それがこの作品の魅力のひとつの要因であり、主眼であるのかもしれない。つまり、すべては“すでに”起こっており、過ぎ去ってしまっている。しかし、それは決して後ろ向きに捉えるべきものではなく、この物語のラストにMr.FOXがつぶやくように、そこからの“survival”こそが重要なのだ。そもそも、この作品自体が「生きている」ものを映したのではないアニメーションであること、それはむしろ、この主題を際立たせることに一役買っているものでもあるだろう。つまり、生きていないものを、いかに“survive”させるのかということ。ウェス・アンダーソンは、自身の映画的感性をフルに活用させながら、その問題に真正面から向き合っている。だからこそ、この映画が最も躍動する瞬間に、『アメリカの夜』(73)のジョルジュ・ドルリューの音楽が流れるのを聞いて、僕はボロ泣きしてしまった。言うまでもなく、『アメリカの夜』もまた、すでに過ぎ去ったことを反芻しながら、それからのこと、すなわち映画の“survive”について思考した作品だった。

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