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March 16, 2012

『おとなのけんか』ロマン・ポランスキー
増田景子

[ cinema , cinema ]

『おとなのけんか』は黄色いチューリップと電話の映画だったと記憶しようと思う。

2011年にヒットした『ゴーストライター』(2010)の監督として記憶に新しい、ロマン・ポランスキーの作品が公開されている。ヤスミナ・レザの戯曲『大人は、かく戦えり』を映画化した『おとなのけんか』は会話ばかりの80分作品。戯曲から生まれた映画だけあって限られた空間を巧みに利用した室内劇で、登場人物も4人と少ない。しかし、ジョディ・フォスターとケイト・ウィンスレット、ジョン・C・ライリー、クリストフ・ヴァルツと顔ぶれはかなり豪華であり、素晴らしい演技を見せている。だが、それは数多くの方が賞賛しているのでそちらを読んでいただきたい。

 だが、それに負けず劣らず黄色いチューリップと電話がすばらしい活躍を見せていた。あまりそのことについて触れているものが少なかったので、この場を借りて、賞賛を送らせていただきたい。

 チューリップは春を彩る代表的な花である。そんなチューリップ(黄色)がリビングのテーブルの真ん中におかれたガラスの花瓶に20本ぐらいさしてある。しかし、よくよく考えてみれば、コートやマフラーの季節にその黄色いチューリップはそぐわない。そこで何となく違和感を生み出し、ただの飾ってある花ではないことを訴えかけてくる。さらに、飾り方も大胆で、スマートにぎゅっと束になってではなく、お鍋にパスタをいれるように放射状に広げられている。すると黄色の面積もぐっと増え、鮮やかな色彩のゆえにただでさえある存在感が一層引き立つ。
 どうやらそれは、今日の来客のためにわざわざ購入したものだということが後でわかる。やっぱりそうだ。よっぽどのブルジョワジーでない限り、冬にチューリップなんて飾らない。何やら20ドルもかかったというではないか。これを見栄といわずしてなんと言おうか。フレンドリーに迎えときながらも、やはりそういう置いてあるもので、自分たちなりの見栄を張っていたのだ。お気に入りの画集がわざわざテーブルに出ていたのも同じ理由だろう。さらに、置いてあるだけじゃ終わらない。黄色いチューリップはジュディ・フォスターの化身としてケイト・ウィンスレットの怒りの矛先が向けられる。さらに……(この先は見てない人には言いたくないので省略させてもらう)。

 黄色いチューリップ同様、いい動きをしているのが電話である。クリストフ・ヴァルツの携帯電話とジョン・C・ライリーの家電だ。彼らはどうしても内輪だけで完結してしまいがちな室内(密室)劇に外部をもたらしてくれる。と、言えばかっこいいが、実際はもうこれでもかっていうタイミングで呼び出し音が鳴るというというだけである。それでも、その呼び出し音は4人のだれよりも場を動かす力がある。というのも、どんな状況でもクリストフ・ヴァルツがその電話に出てしまうからなのだが。議論がヒートアップしてようが、席を立って帰ろうとしようが、携帯電話が鳴ったら、いったん流れは中断されて、みながクリストフ・ヴァルツの方を見ながら、いわゆる「待て」の状態になる。その時間がこの喧嘩にどれほどの油をそそいでいるかはぜひ見てほしい。部外者であるこちらが見てもイライラするような横暴ぶりなのである。

 そして、このチューリップと携帯電話が一体となった瞬間に、この映画はクライマックスを迎え、罵声と爆笑の渦がおこる。

 ちなみに、この映画のプロダクション・デザインはフランシスコ・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』(1972)や『地獄の黙示録』(1979)などのプロダクション・デザインも手がけているディーン・タヴォウラリスという人物で、今回の『おとなのけんか』は10年ぶりの復帰戦である。そうとは思えないほどにくい道具の使い方には脱帽するしかない。電話も黄色いチューリップも立派な登場人物である。

2012年2月18日(土)日比谷シネシャンテほか全国順次ロードショー