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May 6, 2012

『刑事ベラミー』クロード・シャブロル
梅本洋一

[ cinema , sports ]

 クロード・シャブロルは、この遺作で映画をかつてないくらいに抽象的な場に導いた。もちろん、形態はいつもの刑事物である。丁寧なことに、このフィルムのタイトルには、このフィルムをシムノンとブラッサンスに捧げるという言葉まで見つかる。つまりベラミー警視とは、メグレ刑事なのであり、キャリアも晩年に達したジェラール・ドゥパルデューは、メグレ=ベラミーのメランコリーをを演じるにふさわしい存在なのだろう。妻の出身地であるニームの街で休暇中にも関わらず事件捜査に巻き込まれるベラミー。
 捜査は進行し、次第に事件に潜む謎が明らかになってくるのは言うまでもないだろう。シャブロルは、かつてエリック・ロメールとともに世界初のヒッチコックのモノグラフィーを書いているくらいだ。だが、驚くべきは、シャブロルが事件の謎を解明する手つきにあるのではない。保険金詐欺に見立てた事件は、取るに足らぬ凡庸な事件に過ぎない。犯人であることを隠すために男は、自ら顔を整形し、別の人物になりすますのだが、観客であるぼくらは、その謎が解けたところでハタと膝を打ったりはしない。別の深淵に出くわすきっかけを与えくれるに過ぎないからだ。
 「わたし」と同じ男がもうひとりいる。そのことに気付くだけだ。それは、おそらく「わたし」と血を分けた──この場合、異父弟──弟かもしれない。「わたし」とは似ていないが、「わたし」の分身とも、「わたし」の対極とも、あるいは、「わたし」自身とも言える弟の存在。そのことを「わたし」は、犯人と称する自らの顔を整形した男との接触によって理解する。つまり、「わたし」は、この男かもしれない。
 シャブロルは、あるインタヴューで、真のレアリスムとは、こうあることを描くばかりではなく、こうではないこと、こうあったかもしれないことも描くことなのだ、と述べている。あるいは、映画はめったに愛を描くことはない。愛が表象するパッションを描いているだけだ、とも述べている。事実、「わたし」は、犯罪など犯したことがない。一応犯人とされるこの男もまた、犯罪の縁に立ちすくみ、ある男が死んでいくのを見ていただけかもしれない。つまり、「わたし」はかつて、この腹違いの弟を殺そうとしたこともある。「わたし」は「わたし」の分身を消そうと試みたこともあるだのだ。
 事実、映画のラストは、この事件の解決ではない。「わたし」の分身が、消えていく姿である。そうした意味においてシャブロルのこのフィルムは、映画がかつて到達したことにない抽象的な深淵に到達していると言えるだろう。