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September 13, 2012

『適切な距離』大江崇充
隈元博樹

[ cinema , cinema ]

映画における現実と虚構とのはざまのなかで、虚構が現実へと歩み寄っていく時間を思い起こしてみることがある。たとえば古参の隠遁画家が、新参画家の恋人である女性とのやりとりを通じ、その豊満な裸体を精緻に描いていくあの時間(リヴェットの『美しき諍い女』)や、舞台と私生活とのはざまを往来する老名優の時間(オリヴェイラの『家路』)など、映画には何にも代えがたい奇妙なひとときが存在する。挙げればキリがないけれど、そのことこそが映画のひとつの醍醐味であり、映画のひとつの正当性だと感じるならば、大江崇充の『適切な距離』とは、その歩み寄る行為と誠実に向き合った素晴らしいフィルムなのではないだろうか。

『適切な距離』には印象的な稽古場のシーンが登場する。パイプ椅子に座り、横一列に並ぶ学生たち。ふいに彼らは下手側からひとりずつ自分の表情を隣の他者に伝えていくことを始める。表情を伝えられた隣の他者は、さらにその隣の他者へと自らの表情を伝えていく。最後の上手の学生まで来ると、今度は少しだけ笑みをこぼし、ふたたび下手側へとその表情を伝えていくことを繰り返す。この「伝顔ゲーム」のような過程を反復するなかで、結果的にこのフレーム上で笑い転げる彼らに対し、「もうちょっと笑えたね」と、さらに現実の稽古として批評する指導者の声が介入してくる。このように僕たちは、このフレームに映るあらゆる他者に対し、ひとりひとりの何食わぬ表情やその所作を見つめることになる。書かれた台詞やト書きの設定から、予想だにしないリアリズムによって紡がれる画面と、そこに映る顔面の強度。虚構が現実へと歩み寄るなかで、そのダイナミズムに固唾を飲んで見守る一面接官として、僕たちは立ち会うことになるのだ。

それは同じく電車内に座るリクルートスーツ姿の雄司(内村遥)と、生まれて来なかった弟の礼司(時光陸)のシーンにおいても言えることだろう。先日の稽古にて、自分とは正反対の役を演じきれないことを指摘された雄司の前に、亡霊としての礼司が現れる。これから向かう面接会場で発せられるであろう「こんにちは」を繰り返す雄司に対し、礼司も「こんにちは」と彼の真似を繰り返していく。その繰り返しに腹が立ったのか、雄司は礼司に手を挙げるものの、礼司も雄司に手で応える。車窓に射す西日をバックにした二人の「どつきあい」は、稽古場での「伝顔ゲーム」のように見事に反復され、彼らの表情にとめどない彩りをも与えている。

上映後の舞台挨拶で、大江は「エッシャーのだまし絵のような作品を作りたかった」と述べていた。奇妙な階段を登っていくと、いつの間にか下階へ降りていて、それは単純に柱の向きをひとつ変えれば成立するという一種のトリック絵画だ。たしかに『適切な距離』を印象づける日記のフォーマットとは、それを体現するためのひとつの大仕掛と言えるかもしれない。しかし気がつけばそのトリックにもタカが外れ、いつの間にか丁寧に雄司の日記と母親(辰寿広美)の日記という両者の形式にこだわらなくなってくる。嘘か現実か、はたまたこのフィルムが雄司の日記をもとに書かれたものなんてさえも、どうでもよくなってしまうのだ。

しかしこのフィルムには、登場するすべての被写体の顔が目に焼きつけられてしまう、だまし絵のようなトリックがあることを忘れてはならない。つまり物語を覚えてなくとも、あらゆる役者の顔を覚えてしまうようなフィルムなのだ。物語的な要素はカメラと役者、あるいはテロップの解説によって距離をとることで展開され、その距離を縮める際には台詞を抑制し、そこに映る表情の数々をかすめ取ることに努めている。『適切な距離』は、登場人物たちの顔と反復する行為によって構成される小仕掛けの集積に目が離せない。そしてまちがいなく、映画そのものの醍醐味がそこに宿っている。



新宿K's cinemaより連日21:00~上映中(14日まで)

大阪・第七藝術劇場ほか順次ロードショー