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March 23, 2013

『あれから』篠崎誠
結城秀勇

[ cinema ]

かつて安井豊作が語ったという「黒沢清のカタカナタイトル問題」を、いろんな人経由で聞いた。本人からは聞いていないので正確にどういう問題提起だったのかはわからないのだが、それを聞かせてくれた人たちの意見を捨象すると、黒沢清の映画にはカタカナのタイトル、それもおそらく他の監督ならカタカナにしないような言葉のタイトルがあり、それらにはなんらかの共通性がある、ということだった。これに倣ってもし「○○の漢字タイトル問題」あるいは「○○のひらがなタイトル問題」なるものを提起するとしたら、「ひらがなタイトル問題」の候補として真っ先に名前を挙げなければならない監督は、『おかえり』そして『あれから』という2作を監督した篠崎誠だということに異論を挟む余地はあるまい。
もし黒沢清が、漢字のような象形文字と、その多くが曲線によって成り立つひらがなとが持つ様々な含みやニュアンスを、一旦は剥ぎ取ることから始めるためにカタカナタイトルを付けるのだと仮定すれば、篠崎誠はまさにその含みを含みのままに、その広がりと限界とを捉えようとしているとは言えないだろうか。『おかえり』の序盤で上村美穂が何度か口にする「ちょっと出かけてくる」「すぐ帰ってくる」という言葉。それが「ちょっと」でも「すぐ」でもなくなってしまうことが『おかえり』の物語には必要不可欠だった。それと同様に、あるいはそれを作品のより本質的な問いとして置いたのが『あれから』なのであり、この映画は観客に「あれから」という曖昧な広がりと直面することを求める。
篠崎は、たとえば『希望の国』の園子温のように「あれ」を反復して見せることはしない。「あれ」はすでに起こってしまっている。そしてこの映画を見る者なら誰しも、「あれ」=「2011年3月11日に起こった地震とそれに伴う大津波(そして原発事故)」というようには、必ずしもぴったりと一致しないことに気づくだろう。たしかに「あれ」の存在を反復するように余震は繰り返す。しかし劇中で実際に起こるもっとも大きな揺れは、たったいま目の前で起こった取り返しのつかない出来事に対する、ある男の後悔そのものとして描かれていた。
だから僕たちはいまなお「あれから」の中にいることを忘れずに生きよう、などという健康な意見を言えればよかったのかもしれないが、そんな気になれない。本当に僕らはまだ2年前の今日と同じ「あれから」の中を生きていると言えるだろうか?たぶんそうではないし、そうであると言い張るのはある種の欺瞞だ。でもどこかで「あれから」が終わってしまったということでもないのだと思う。2011年3月11日以降を僕たちが生きているという事実は変わらないが、それと同様に僕らはまた、2012年の3月11日以降を生きてもいるし、2013年の3月11日以降をも生きている。そのことの重みは人によって違うだろう。でもこの「あれから」の積み重なりそのものの厚さを、今日『おかえり』を見て考えた。『おかえり』と『あれから』という2本の映画が、いま自分が90年代以降という「あれから」を生きていること、そしてそれについて考えることの重要さを教えてくれた。


オーディトリウム渋谷、吉祥寺バウスシアターにて3/29まで