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May 19, 2013

『グッバイ・ファーストラブ』ミア・ハンセン=ラブ
代田愛実

[ cinema , cinema ]

 前半に展開される若い2人の恋愛事情の描写は、監督が女性だからなのだろうか、女の私に取っては、いささか凡庸に映った。ロメールであれば、トリュフォーであれば、もう少し女性に対する"あこがれ"の視点が介入するであろう——女という生き物の、そばにいても手の届かないミステリアスな部分や、理解に苦しむ奔放な姿が描かれたであろう——、だからこそ、観ている者をときめかせたるのだが、このクリシェのような、凡庸さはどうしたことだろうか?と、作品への期待が薄らいでいったのは確かである。主人公のカミーユがとても可愛い、ということにしか魅力を感じられなかったのである。
 だが中盤、後にカミーユと恋仲になる建築家はこう言う。"記憶と微光が重要だ"と。主人公が専攻する建築について語られた言葉であったが、これはまさに、映画についての言動なのであった。
 微光とは目の前にあるスクリーンの事であり、この光が私たちの記憶にアクセスし、例えば古い映画を、あるいは自らの体験をも、呼び起こしてゆく。主人公の髪が再び伸びる時、かつてつけていた白いマフラーや薄い布地のワンピース、彼がくれた帽子を身につける時、別荘と川に訪れる時、私たちは、作品の中だけでも、記憶を呼び起こす体験をする。
 かくして作品は息を吹き返し、カミーユも自らの人生を見いだしてゆく。かつての恋人と再び愛を交わし、同じように手紙で別れを告げられる時も、カミーユはかつてのカミーユではない。まさに川の流れのように、同じように見えるけれど、かつてここを流れていた水滴は1つとしてここに残ってはいないように、彼女の時間あるいは人生が、流れてゆくのである。

 また、1つの印象的なシーンがある。建築学科のゼミだろうか。1人の学生が読むテクストを、カミーユが「そうだろうか?」あるいは「たしかにそうだ」と、どちらとも取れるような顔つきで聴いている。"住居は需要性、必要性の分野から作られるために、芸術という分野に隔てられた"、というような内容だったと記憶しているが、このテクストの”住居"もまた、映画に置き換え可能なテクストなのだった。

 静かな作品だけれど、じわりと記憶に残る。原題の『Un Amour de Jeunesse』(直訳すれば「若かりし頃の愛」だろうか?)が言い表しているのは、在りし日の記憶がささやかに灯す炎(=微光)なのかもしれない。



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