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March 8, 2014

『息を殺して』五十嵐耕平
田中竜輔

[ cinema ]

2017年の12月30日から2018年1月1日にかけてのとある清掃工場での出来事。未来と呼ぶには近過ぎて、現在と呼ぶには遠過ぎる、そのような『息を殺して』の時代設定とはいったい何なのだろう。このフィルムの登場人物たちは、どうやら自衛隊が「国防軍」と名前を変え、若い人々が戦地で命を落とすことが決して珍しい出来事でなくなった時代を生きているようだ。しかし一方で、彼らは2014年と同じような機種のスマートフォンで連絡を取り合ったり、代わり映えのないMP3プレイヤーを貸し借りしたり、プレステで遊んでいたりする。私たちの生きる現在とまるっきり同じではないけれども、しかし完全に切断されたというわけでもない、そんな曖昧な時空。工場の事務であるタニちゃん、夜勤をゲームで潰すケンやゴウ、タニちゃんと不倫関係にあるらしい足立さんや、新年の飾り付けに勤しむヤナさんたちは、そんな工場のなかでふたりの幽霊に出会ってしまう。
特にやるべき仕事もないのに、ひたすらこの工場に留まり続ける彼らには、家に帰ろうとしないそれぞれの事情があるらしい。彼らのバックグラウンドは、私たちの日常がそうであるような複雑さを有しているようだ。私たちは彼らのなんとなしの籠城を見つめながらその複雑さに思いを馳せもしよう。しかし兎にも角にも私たちが映画に見ることができるのは、その結果としてこの工場に留まる彼らの姿でしかなく、彼らの理由や事情それ自体ではない。だから、こう言い換えることもできるだろうか。彼らの工場への籠城とは、すなわち彼らの持つ様々な事情や背景の幽霊としてあるのだと。彼らは彼ら自身の幽霊なのではなく、彼らの有する様々な物語の幽霊として、その姿を私たちに晒すのだ。
工場に迷い込んだ犬を探して廊下をとぼとぼと歩くタニちゃんを捉えつつ、そのフレームの端に見知らぬ人がひとりふたりポツンポツンと姿を現しては、ゆっくりと画面を通り過ぎてゆく印象深いいくつかのショット。ここでタニちゃんは彼らにまるで気づいていないし、彼らもタニちゃんになんら影響を及ぼしてはいない。このふたりに有機的な関係は成立していない、すなわち彼らの間に物語はない。ところが、そのような互いの「無関心」そのものとして現れたこのショットに、私たちは十分に豊かなものを感じることができる。ここには、彼らの背景やら信条やらとはまったく無縁の新たな関係が生み出されている。とは言え、それがこのフィルムの特徴だとか目論見だとか読み解くことが問題なのではない。そもそも映画とは、そこに映り込む被写体の資質や背景とは無関係に、そうした出来事を不可避的に生み出してしまうものでもあるからだ。このフィルムがタイトル通り「息を殺して」見つめるものとは、そのような関係ならざる関係の在り処、あるいはその発明の瞬間である。

幽霊がいかなるものであるかを描写するといったことにこのフィルムは拘泥するわけではない。そうではなく、いかにして私たちは幽霊と出会うことができるのか、いかにして幽霊なるものと私たちは関係を持つことができるのか。『息を殺して』の描く物語は、このフィルムの描く近過ぎる/遠過ぎる「未来」は、そこに映る人々がそれまでに生きてきたようで、しかし本当は生きていなかったさまざまな「過去」なるものの先に紡がれている。つまり「2017年以前」という「幽霊」と、「2017年の年の瀬」との関係を見出すことにしか、『息を殺して』という映画における物語のチャンスはないのだ。ケンやゴウの死んでしまった友達や、タニちゃんのお父さんであり足立さんやヤナさんが「工場長」と呼ぶ幽霊たちとどのように出会うことができるのかを問うことは、このフィルムに映し出される「幽霊」なるものをどのように肯定できるのかという問いと完全に等価なのだ。
「幽霊」たちがかつてその工場にいて、日常を送っていたことを証明するために費やされる時間、「そうであったかもしれない」ことが「そうであった」こととして肯定されるために生み出される時間。そこにこそ『息を殺して』がその輝きを振り絞る瞬間はある。それは、娘の頬を伝う涙を拭くあの素晴らしい父親の指の動きと、それを捉える同じく素晴らしいクロースアップが映し出すものだ。ひとりの男がタニちゃんの父親の幽霊であることを、ひとりの女とひとりの男との肉体的な接触こそが証明するということ。この倒錯した事態をひたすらに肯定してしまう映画の力能を、このフィルムは信じている。現実ではないものが、現実によってこそ生み出される瞬間とでも呼ぶべきものを、このフィルムは見出そうとしている。
工場の人々が12月31日に興じる「サバゲー」が、現実の戦争と確かに関係を持つ何かであることを誰もが感じるように、『息を殺して』はその工場に住まう無数の幽霊たちが、現実を生きる私たちと関係を有する何かであることを感じさせてくれる。人々が新年を迎え工場の出口へと歩みだすその直前に、私たちはひと組の男女のダンスを目撃する。出会うことと別れることがひと繋ぎとなったそのシークエンスに、「ある」ことと「ない」ことがひと繋ぎの関係であることを模索したこのフィルムの、最も幸福で痛切な瞬間は息づいている。

東京藝術大学大学院映像研究科 第8期生終了作品展 にて上映予定
渋谷ユーロスペースにて2014年3月8日〜14日まで開催