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April 13, 2014

『チトー・オン・アイス』マックス・アンダーソン&ヘレナ・アホネン
隈元博樹

[ cinema , cinema ]

 カメラによって切り取られた現実のドキュメントと、カメラによって切り取られた現実のストップモーション。現実のドキュメントとは旧ユーゴスラビア以降の国々の現在やその記憶を語る人々の証言であり、ストップモーションとはその現実をもとに100パーセントの再生紙によってデフォルメされたモノクロ映像のことを指している。
 ふたつの世界をマックス、ラースとともに媒介していくのは、スウェーデンから旧ユーゴへと向かった1体のヨシップ・ブロズ・チトーの等身大人形だ。現地を舞台にした新作漫画『ボスニアン・フライト・ドッグス』のキャンペーンのため、彼らは同作品に登場するチトー人形をこしらえ、スロベニア、クロアチア、セルビアといった諸国を放浪していく。この作品は現地を放浪するマックスとラースの映像をはじめ、アーティストや出版業界の編集者、漫画の主人公のモデルとなったマクロ研究所所長などへのインタヴューによって進められていく。だけど同時に、彼らはドキュメントを再構築したストップモーションの世界へも没入していくことになる。だから『チトー・オン・アイス』は、一部始終にふたつの世界が成立し、お互いにアクロバティックな往復を試みていくかのような手法によって交換可能な世界を作り上げているのだ。
 ドキュメントとストップモーションのパートを混交させることで感じたのは、旧ユーゴスラビア時代から続くシビアさと引き換えに、それらを戯画することで得る絶妙な軽やかさが『チトー・オン・アイス』を支えているのではないかということだ。紛争時の空襲を受け廃墟となったアパートメントや繁華街は「あのとき」の残像を喚起させ、当事者たちは社会主義国家時代の記憶を淡々と語っていく。ふたたび紛争が起こりうるのではないかとさえ感じてしまう現実が、マックスとラース、それからチトー人形を待ち受けている。だけどいっぽう、無造作に飛び込むカリカチュアなストップモーションによる軽さは、現実の世界とともに均衡に並べられることによって、絶え間なくおたがいの世界について模索し合うことを受け入れている。
 実際に彼らが訪れた現実のドキュメントには、「あのとき」の残像や記憶が漂い続け、いまだにその状況の脆さがひしと伝わってくる。だけどそれを見ているのはマックスとラースのふたりだけではない。彼らはつねにチトー人形を外へと連れ出し、車椅子や地べたに座らせる。またインタヴューの背後では、その場その場で体勢を変え、彼らの証言にじっと耳を傾けている。まるで旧ユーゴを指導したかつての英雄であるチトーが、亡霊となって現在の状況について盗み聞きをしている、といったように。
 クロアチアとボスニアの国境で検問員に呼び止められたシークエンスでは、マックスとラースたちは当初カメラを止めるように諭される。だけど後部座席に座るチトー人形の姿を見た瞬間、検問員たちはおもむろに群がる。「問題はない、通っていいぞ」「チトーと写真を撮ってくれないか」と、彼らはあっけなく態度を変えてしまうのだ。ドキュメントとストップモーションの世界をつなぐのは、どこもかしこもチトーの存在であることはまちがいない。だから同時に、この作品が持つシビアさと軽さをつなぐのも、おそらくチトーによる現代的な政策の一環だと思うのだ。


4/15(火)19:15~、4/23(水)19:15~「GEORAMA2014」@吉祥寺バウスシアターにて上映