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October 9, 2014

『ピーター・ブルックの世界一受けたいお稽古』サイモン・ブルック
三浦 翔

[ cinema ]

この映画はある重要な問いを含んでいる。というのは、伝説と言われる演劇人ピーター・ブルックの舞台制作メソッドが明らかにされるからではない。ピーター・ブルックが問題にするリアリティとは、如何にして生きた舞台を作り上げるかという単純なことだ。この映画では特に、役者の振る舞いが問題になる。それを映像化するということは、如何にして映像に力を与えるかという単純かつ重要な問いになっていく。

映画はピーター・ブルックのワークショップを捉えていく。13人のアーティストがそこに参加し、主に行われるのは綱渡りという特殊な稽古である。(映画の原題は『Peter Brook:The Thightrope』になっている)といっても、本物の綱の上を渡っていくのではなく、何もない絨毯の上で綱があるかのように、足の裏で綱を感じ身体全体でバランスを取り綱渡りのパフォーマンスを見せていく。そこで求められるのは、綱渡り師の振る舞いではなく、自らが綱の上にいるときの身体の反応である。もし、ただ綱渡りらしく見せようと思えばピーター・ブルックから修正が入る。あくまでもここで求められているのは、役者自身の感覚を研ぎ澄ますことでありその感覚を振る舞いとして外部化することである。それを単純に捉えることは、意図や演出といったものをじわじわと超えていくことになる。

ここで注意しなくてはならないのは、この映画がワークショップを撮っていることだ。つまり失敗も挑戦も許される稽古の場を撮ることで、無味乾燥な単なる映像に過ぎないものへと陥る危険を冒している。ここでは、劇的な語りがない故に、また常にウソの可能性が同居するために、あくまで映像に現れる身体を見つめることのみが求められる。それは、綱渡りをする足をあえてクローズアップにしてみても同じである。そこに寄ってみるということは、決定的な何かがあるからではなく、「ちょっと注目してみた」という試みに過ぎないからだ。そこにあるから映すのではなく、あるかも知れないからそこが映される。あくまでも、ショットの根拠は可能性のレベルにある。

つまり、この映画はイイ動き・イイ振る舞いの生まれる過程を捉えることに終始する。誰もがうなずくような感動するシーンがあるわけではない。あくまで、イイ動きとウソの動きの間を綱渡りするだけであり、映像はそのあまりにも小さな差異しか映さない。故に、観客はそれを感触しようとさまようことになる。だがその分だけ、映像が力を持つか否かという境界に接近することになる。であるからこそ、ピーター・ブルックが腰の位置からゆっくりと拳を前に突き出し、その拳をただ開くといった動きに感動するようなことが起こり得るのだ。

本来ピーター・ブルックは特定の型を退廃演劇として捨て去り、経験と実践に基づくその場で生まれるもののみを糧にして制作を進める一方で、監督である息子のサイモン・ブルックは父の仕事をよく理解し、答えを持たず制作過程に寄り添った。つまり、ピーターがその場で生きた舞台を作り上げようとする、と同時にサイモンは生きた映像を生みだそうとしているのだ。そうすることで、サイモン独自のあるいは他の一定な解釈を生むのではなく、他の参加者そしてピーターと同じく、ただその瞬間を共有し得ることになる。そして初めて、映像としてピーターの精神が体現されるのだ。

ピーターは「そこに一人の男が立ち、そして彼を見つめるもう一人の人間。演劇が成立するためにその他になにがいるだろう」という言葉を残した。彼は、演劇には観客との関係が切れないことそして演劇は現在の時間においてのみ存在する、という考えを先鋭化させた人である。それを映像化するとは、この映画の試みである、さまようことなのではないか。つまり、あくまで役者そして観客とともに、この映画の題を借りれば綱渡りすることである。この正統な映像化は、良き理解者である息子だからこそ可能になったのではないだろうか。


2014年9月渋谷 シアター・イメージフォーラム他にて全国順次公開