« previous | メイン | next »

November 15, 2014

『映画とは何か--フランス映画思想史』三浦哲哉
田中竜輔

[ book ]

 映画について考えようとこの書籍を手にしたのなら、それはたんに幸福なことであるよりは、ある切実さを伴った経験となる。なぜならこの書物は映画をめぐる思考/思想の実践的な歴史を問うものではあるが、同時にある種の恋愛をめぐって紡がれた書物でもあるように思われるからだ。その恋愛とは、スクリーンの上に繰り広げられる俳優と女優の織り成す幻想の光景ではないし、スクリーンの外側での映画関係者たちのスキャンダラスな逸話でもない。問われるのは私たちと映画そのものとの恋愛である。すなわち、いかに私たちは映画に恋することができるか、そして私たちはどうしたら映画を愛することができるのか、そしてその愛はいかにして危機を乗り越えることができるのか。ジャン・パンルヴェ、アンドレ・バザン、ロベール・ブレッソン、そしてジル・ドゥルーズ。この4人の登場人物たちによる映画との過激な恋愛譚において語られるのは、およそそのようなことだと言ってみたい。

 最初の問題となるのは、私たちがもはや映画に一目惚れすることが不可能だという事態である。「映画の誕生からすでに一世紀以上が経った。生まれたときから多種多様な映像とメディアに取り囲まれて生活してきた者にとって、在りのままの光景をただ映した初期映画に驚き感動せよというほうがおかしい」(p10)。しかし一方でそのような在りのままの光景に感動することのできるまなざしが、つまりは一目惚れを体現するまなざしが、この世界には存在している。私たちはことによると、失われた一目惚れを取り戻すことができるかもしれない。それがこの書物の出発点である。
 ジャン・パンルヴェとアンドレ・バザンをめぐる第1、2章において際立つのは、映画というものがキャメラという機械を中枢として絶対的な客観性を生産する力能を有していながら、しかしそれとまるで矛盾しないかたちで人間の想像力の世界に関わりを有していることの分析である。パンルヴェとバザンは、人類の映画への一目惚れの後にこそ生まれたものの、グラン・カフェの観客と同様に初期映画への感動を一目惚れとして体験したことを許された世代であり、だから彼らの作品やテクストは、そうした自らの一目惚れに基づく映画への恋愛を生きている。しかしそんな彼らの実践は、その一目惚れという純粋さへの信望に留まるものではなく、むしろそれを逸脱したところにこそ真髄があると三浦は論じる。科学映画の巨匠であるパンルヴェがやがて人形を用いたフィクションをつくり続けたこと、あるいは現実それ自体の保存という映画の力能を論じたバザンが想像的なものの現実性を問い続けていたことは、映画という装置の出現においてわれわれ人類が現実と虚構という二元論を見事に脱線し始めたことを証明する足取りだ。「映画とは、『現実世界』が光線と接する表面において『脱皮』した後に残される皮膚、それを自動保存する装置である(......)それら表皮が映画のフィルムの上に転写・自動保存され、いわば即時的な過去として存続し、再び編集され、想起の対象となるのである」(p94−95)。
 彼らの軌跡はもちろんリアリズムという基軸にその発端を持ちつつも、そのリアリズムがもたらした人間の想像世界の変容にこそ関わっている。つまり視覚のリアリズムに基づいていたはずの映画への一目惚れは、やがてそれを見た者の内的な感性をつくりかえ、そこに様々な情動を湧き起こすことになる。そうした思考をめぐる歴史の最も幸福な例として、三浦はバザンとトリュフォーの関係を論じている。
 しかしそのような事例は、一歩間違えれば容易に表象というものの罠に陥ることになる、偽りの一目惚れを量産することになる。そのように自らの映画をめぐる実践に警戒を怠らなかったのがロベール・ブレッソンであった。彼にとって表象というものが嫌悪の対象であったのは、それがリアリズムを口実にした偽の一目惚れの捏造に留まる行為だったからだ。「撮影時点でのイメージ、すなわち『感覚』に与えられたイメージと、編集後のイメージ、すなわち『表現すべきオブジェ』とに映画監督は引き裂かれる」ことにこそ、ブレッソンは映画との一目惚れが再生する可能性はあるのだとその実践を続けたのだ。
 そしてジル・ドゥルーズが『シネマ』において論じた映画の世界への信をめぐる問いとは、あるいは運動イメージの危機とは、観客と映画の恋愛の関係を繋ぎ止める一目惚れが、おそらくはブレッソンが警戒していたような表象の論理における堕落に陥ったことを示しているだろう。しかしながらそのような危機にこそ、人類と映画との恋愛のフェイズを引き上げる契機はあるとドゥルーズは論じる。それは恋愛につきものの倦怠期を乗り越えるための術だとか、避け難い浮気への誘惑をいかに排除するかといった指南とはまるで関係がない。なぜ私たちは映画を必要とするのか、あるいはなぜ映画を必要とすべきなのかという命題は、映画との恋愛の危機の最中にこそ生起し、その危機とともに(あるいはその危機をもたらした何かとともに)思考しなければならないものであるからだ。

 無論そのような危機においても、素知らぬ顔で円満な映画との関係を続けようともした人もいるだろうし、素直に破局を受け入れて新たな恋に手をつけた人もいただろう(たとえばその緩やかな失敗そのものを自らの映画製作=恋愛のモードとしたのがブライアン・デ・パルマであると三浦は述べる、すごい指摘だ)。しかしその不可能な一目惚れの前で立ち止まり、危機の最中にあることを自覚しつつ、いかにして映画との恋愛を生きることができるかと思考した人々もまた存在する。本書の著者である三浦哲哉は、まぎれもなくそのひとりである。
「カメラの前で推移する出来事を可能なかぎり尊重し、知性的に分解してしまうことなく、矛盾する曖昧な諸要素を一回にして把握するあれら驚くべきショットを体験するとき、私たちはそこで世界のこれまで見たことのない相貌に触れたという感触を持つ」(p68)。日本におけるアンドレ・バザンの受容をめぐる記述の中で、『桜桃の味』や『憂鬱な楽園』といった作品を例に書かれた野崎歓のバザン論を以上のように要約した上で、三浦は次のような印象深い一説を記している。「おそらく野崎(歓)や梅本(洋一)のテキストをかたわらに侯孝賢やキアロスタミを見ることによって、私たちはバザンのテキストをかたわらにロッセリーニを見たヌーヴェル・ヴァーグ世代を模倣しようとしていたのかもしれない」(P68-69)。ここで三浦が記しているのは、他の誰かが映画を愛していたことに倣って、自らも映画を思考していたという経験である。それは言ってみれば、他の誰かの恋に恋をしていた氏の人生の一季節をめぐる赤裸々な告白でもあるはずだ。
 恋に恋すること。いざ言葉にしてみるとどこか気恥ずかしいが、しかしそれは自身の現在の恋や愛を体現するために必要な経験である。ただしその先を最もよく生きるとするのなら、それは自身の恋愛観に強固なリアリズムを導入するための訓練としてではなく、新たな一目惚れを今度は自分が生き返すための準備として受け入れるべきものであるだろう。そのような一目惚れこそ、本書で繰り返し記述される「自動性」という言葉の有する意味のひとつではないか? つまり誰かの成した恋の模倣というリアリズムを成し遂げることではなく、あるいは誰かの恋をリアリズムを口実として自分のものにするのでもなく、幾多の模倣への希求が現実に剥がれ落ちるような仕方で自分だけの映画への一目惚れを、恋を、愛を創造することが必要とされているのだ。
 そしてそのような自分だけの恋愛から、また他の誰かの恋を生み出すにはどうしたらよいのか。これは映画をつくること、映画について書くこと、映画を考えることの最大の目的のひとつであるはずだ。それこそが「自動性」に基づく「生の萌芽」のひとつの力能でもあるだろう。三浦哲哉によって紡がれたこの素晴らしい恋愛譚は、氏が論じた様々な作品と同様の自動性において運動している。この本を読めば、誰もがそれぞれの映画との(あるいは他の何かとの)恋愛の方法について考え始めることだろう。もちろん私もそのひとりである。