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June 2, 2015

カンヌ国際映画祭2015リポート Vol.03 
坂本安美

[ cinema ]

5月14日
夜20時近く、カンヌに到着。槻舘南菜子のお陰でフランスの若い批評家たちと6人でアパートを共有させてもらうことになっていたのだが、予想以上の狭さに一瞬たじろぐ。なんとか荷物を整理し、二段ベッドの下を寝床に確保させてもらい、長旅で疲弊した身体にむち打ち、南菜子ちゃんと共に「ある視点」部門のオープニング・パーティーに顔を出す。それで帰ればいいのに、しばらく会っていなかった友人に一目と出かけてしまい、結局夜中の3時頃にアパートに戻る。が、鍵が開かない、焦りながら悪戦苦闘15分ほど。明日の上映のためにすでに寝ている皆を起こしてはならないと思いながら、最初は控えめに、次第に強くノックするが誰も出ない......。建物の下のバーで、片手に煙草を持ちながら男性とムーディーに踊っているボディコンのお姉さんに泣きついて、一緒に鍵を開けてもらうがやはり開かない、もしかしてこっちの扉じゃないの?いやそんなことは......でも念のため、開いた!扉が開いた瞬間、思わずふたりでその場で抱きついて、歓声を上げしまい、結局玄関近くのキッチンで寝ていた男子3人組みを起こしてしまった。初日から何をやっているのか......。イカしたお姉さん、「Welcome to France!」と言いながら、軽やかにまたバーに戻って行った。

5月15 日
朝7時頃から、ひとつしかないバスルームを効率よく順番に使い、それぞれが上映会場で列に並ぶため出かけて行く。私は今朝の上映はパスし、ゆっくり支度することに。今回は体調のこともあり(と言いながら初日から不良しているのが悪いのだが)、あまり必死に映画を観ようとせずに、いくつかの大切なミッションを果たすことを優先に、あとは余裕次第で動こうと思っている。昨晩は会えなかった同居人のひとりカリーヌ・ベルナスコニもいつのも間に帰って来ていて、挨拶をする。彼女は以前ロカルノ映画祭の元ディレクター(現アルテ映画部長)、オリヴィエ・ペールのもとで働いていて、現在はポンピドゥー・センターで開催されるドキュメンタリー映画祭「シネマ・デュ・レエル」で働いているそうだ。噂に違わず気さくで、チャーミングな女子だ。とりあえずパスを取りに行き、クロワッサンとカフェオレの朝食をとりながら、新聞に目を通す。カフェの中で「GRAZIADAILY CANNES」というフリーペーパーを見つける。長年の親しい友人である映画批評家フィリップ・アズーリが最近この雑誌で書き始めたと聞いていたが、この映画祭フリーペーパーの編集長を務めているようだ。「眠らないカンヌ」と題された映画祭日誌とその日の彼らのイチオシ作品の批評「本日の私たちの映画」が一面に、中面にも批評やインタビューが多少短いながらも充実した内容で掲載されている(http://www.grazia.fr/operation-speciale/grazia-daily-cannes/grazia-daily-cannes3
)。
さて、まず1作目はアルノー・デプレシャン『Trois souvenirs de ma jeunesse(僕の青春の三つの思い出)』。実は、この日の上映に間に合わせるために、当初予定していたスケジュールを一日前倒しにして到着した。つまり、この作品のお披露目に立ち合うことは、今回のカンヌ行きを決めた大切なミッションのひとつであるのだ。デプレシャンがほぼ20年の時を経て、『そして僕は恋をする』(1996年)の主人公、ポール・デダリュスの青春時代、とくにエステールとの出会い、つまり映画史上の伝説的カップルの出会いを描く、その企画を数年前に耳にしただけで感動を覚え、それからずっと心待ちにしていたのだ。南仏の強い陽射しの中、胸の高まりを感じながら、一時間前よりカリーヌたちと監督週間の会場前の列に並ぶ。無事に前から二列目に席を確保し、何層にも織りなされた時間、空間へと、デプレシャンによるあらたな映画的冒険を体験するなんとも濃密な二時間......、そしてラストでは涙が止まらなかった。

troissouvenir.jpgいつか、まだ若きデプレシャンがインタビューでトリュフォーについて「僕は彼の小説的なインスピレーションよりも、彼のラディカルな側面に興味がある......(そのラディカルな面とは)語りの選択における抽象化にある」と述べていた。本作は、トリュフォーがいかに今日の映画をつくっているか、「フランス映画」がいかにトリュフォーによってつくられているかをあらためて高らかに示している。そうした試みは、いま「映画」が散り散りになっていく現在、どれほど勇気のいることか。そしてトリュフォーを経由したヒッチコック、そして彼らを経由した「アメリカ映画」、それらの持つ現代性がこのデプレシャンの作品の中に、単なるオマージュや引用という枠を越えて、ある種の必然性を持って集結し、そしてどの作品にもある意味似ていない、まったく新たな傑作、デプレシャンの最高傑作が生まれたと言っていいだろう。
上映後のティーチインで、デプレシャン、アマルリックとともに、若きポール、エステールを演じた新人、カンタン・ドルメールとルー・ロワ=ルコリネ(どちらも本当に素晴らしい!)が登場する。ようやく自分の作品を見てもらったことへの喜びと恥じらいの混ざったいつものくしゃくしゃとした笑顔のデプレシャン、少しばかり控え目なアマルリック、そしてやはり恥じらいと、しかし大いなる誇らしさを湛えた若者たちを、観終わってまだ感動を言葉にできぬ私たちは、称賛の眼差しと、ぎこちなくもいくつかの質問を投げかけた。

大切なミッションを終え、予想以上の感動に包まれながら、睡眠時間の少なさもあり身体がすでにふらついてきたが、こちらも観ないわけにはいかない。同じく監督週間にてフィリップ・ガレルの『L'Ombre des femmes(女たちの影)』
ombresdesfemme.jpgガレルの作品ほど、ひとつのショット、その中の表情、仕草、台詞によって簡潔にある感情を伝えてくれる作品はないのだが、前作の『ジェラシー』から、それまでの簡潔さからさらに透明なる簡潔さにガレルの作品が到達しているように思える。自分は他の女性と浮気をしても、男だから許されるが、妻の浮気は許せない、あまりにもマッチョな、ありきたりな男性像、そこから発せられるやはりありきたりな言葉に、上映中、下品に響く笑いが何度も起こるほど、『女たちの影』はどこかロメールを思わせるようなコミカルさを有している。しかしこれまで何度も目に、あるいは耳にしてきた男女のやり取りが展開していながらも、そこには他者の存在、光と影、フレームとフレーム外、切り返しがつねにあり、どのショットにも緊張感がある。そのマッチョで、卑怯とさえよびたくなる無口な夫をスタニスラス・メアールが彼独特の繊細さによって深みのある登場人物にしている。そして彼の妻を、ジャク・ドワイヨンの『ピストルと少年』(1991年)の少年の姉役以来、スクリーンで長いこと目にすることがなかったクロチルド・クローが、女性の持ち得る様々な感情や仕草を、ヒステリーからは遠く、ときに静かにときに激しく演じていて圧倒的に素晴らしい。夫から花をプレゼンとされ、凡庸さの中の幸せを素直に感じている彼女、料理を作り、夫を待つ彼女、愛する夫に隠れて、愛人に会いに行く際の欲望に身が火照り、悦びに身を任している彼女、夫からの一方的な責め、侮辱に、全身で怒りに震える彼女、そしてあの高らかなラストの笑い......。ガレル作品では女優たちはみなノーメークでの出演を求められるとのことだが、クローの剥き出しの貌には、そうしたすべての表情が、まさしく裸体のまま表出している。いつまでも見つめていたいヒロイン、愛おしいヒロインが、ガレル映画で久しぶりに誕生したのではないだろうか。

夜は、『僕の青春の三つの思い出』のパーティーへ。アルノーが若い出演者たちと一緒に楽しそうに、そして独特(?)のリズムで踊っている。なにやら彼流があるようで、それを必死に身体で思い出しながら、楽しくも真面目に踊っている。私も輪に混じり、私流に(?)踊る。「今日は酔っぱらうぞ」と言っているアルノーに負けじと、私もシャンパンを何杯もおかわりする。
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『僕らのアルカディア』、それが本来、アルノーがこの作品に付けたかったタイトルだ。私たちのアルカディア、それは決して過去へのノスタルジーではなく、忘却の彼方から、立ち戻って来て、私たちの現在とふいに同居し始める彼や彼女たちの世界。すでにない、しかしそこにあるアルカディア、私の、あなたのアルカディア。「仮に、自分たちの夢物語(ユートピア)を追い求めている登場人物たちが存在するとしてみよう。そうするとその度に、映画はその夢物語に役立つ。つまり映画のみが私たちの踏みにじられた、あるいは華々しい(はなばなしい)夢物語が日常生活と同じぐらいに重要であるのかを見せることができるのだ」。(アルノー・デプレシャン)

  • 『僕の青春の三つの思い出(僕らのアルカディア) Trois souvenir de ma jeunesse - Nos arcadies』アルノー・デプレシャン 坂本安美